neko_atama_byM's Archive
なんというのかな、その気になれば、
この額にだって見る事ができたのか?
漢字でない文字を?
しかし、迂闊にもこのような額しか目に入らないようで
Sign of the Hall of Supreme Harmony
中華人民共和国、北京市東城区にあるチベット仏教寺院、
「雍和宮」に掲げられている扁額。
4つの文字で「雍和宮」と書かれているが、右から順に
清(中国)の支配民族である満族の言語である満州語を満州文字で、
清の多数民族である漢民族の言語である中国語を漢字で、
チベット仏教の発祥国(当時は清の保護国)のチベットの言語であるチベット語をチベット文字で、
第2のチベット仏教信仰民族であるモンゴル民族の言語モンゴル語をモンゴル文字で
清代には満州文字は公用文字として公文書には必ず用いられたと言われるが、 実際には清代の中葉から漢字で書かれた文献が優位になっていた。 このため、西太后らは満州文字を全く理解できなかった一方、漢文は理解できたという。
現代は、中華人民共和国の55少数民族
中国を扱った映画などの作品で見られる辮髪や両把頭やチャイナドレスは 元来は満洲族の習俗であったものが清の時代に中国に持ち込まれたものである。
2000年の人口調査では
満族人口は= 10,387,958人
漢民族 =
1,310,158,851
全人類の20%
1980年代以降は政府の少数民族優遇政策から積極的に民族籍を満族に改めようとする動きがあって、
満族の人口は10年あまりのうちに3.5倍以上に増加している
これは満族になる事で少数民族として優遇措置の恩恵を受けようとする人が多いためといわれており、
満洲語を学習しようとする人が増加している訳ではない。
ヌルハチは、満洲語を表記するためにモンゴル文字を改良させて満洲文字を作り、満洲民族文化を確立することに努めた。
「清の支配階層である満州族はわずか数十万人で、
三億を超える漢族に対してあまりにも数が少なかったため、
長い清王朝の支配が続くうちに、徐々に満州族本来の文化や言語を忘れていき、
漢族のなかに溶け込んでしまいました。
現在、純粋の満州族は存在せず、満州語もほぼ死語となっています。」
Wikipedia漢民族
中華人民共和国の人口の94%以上漢族に典型的な遺伝的血統があるわけではなく、 その実体は漢字の黄河文明を生み出した中原と周辺の多民族との間で繰り返された混血。 ゆえに、異民族でも漢族の文化伝統を受け入れれば、漢族とみなされる。
中国文化は漢字表記の漢語(中国語)を基本とする文化として収斂されつつあり、 漢族の定義如何よりも漢族概念自体が漢族を形成しつつある
民族の融合と異民族の漢化清の時代の満州族は政治及び軍事的に中国を統治したが、統治を維持するために漢文化を導入し、
言語や文化において迅速に漢化された。
現在、満州語を操れる満州族は100人以下(厳密に言えば、20人から70人)とされる。[要出典]
文字の獄 (もんじのごく)とは中国の歴代王朝で行われた、粛清の類型の一つ。
文書に書いた文字や内容が皇帝や体制を婉曲に批判しているとして、当該文書を作成した者を罰すること。
実際には無実であることが多い。
中国の歴代王朝では文書の作成に漢文を用いることが殆どである。
漢文を構成する漢字は表意文字であるため、同音異義字などを使用して隠れた意味を持たせた文章を作成することができる。
古来からこのような漢字の特性を生かして、実際に予言や体制批判などがなされ、利用されてきた。
そのため、為政者にとって不満分子を摘発するのにはまず文書を読みその意味を探るのが第一となる。
しかし、疑いをかけるあまり書き手が意図しない意味を取り上げ、弾劾するという「揚げ足取り」のようなことがしばしば起きた。
これを恐れと批判を込めて「文字の獄」という。
文字の獄が顕著だったのは明のはじめである。 1368年に明朝が樹立されると、洪武帝は建国の功臣の粛清を始めた。 卑賤の出であることについて劣等感を抱いていた洪武帝は、 ことに文人たちに猜疑心を持った。 そのため、多くの官僚が文書で「皇帝を謗っている」として処罰された。 また中国では春節に戸口に貼られる倒福の起源も洪武帝の時の文字の獄である
清朝では雍正帝による文字の獄が有名である。反満反清的記述をした者には極刑が処せられた。
科挙の出題に『詩経』から「維民所止」というものが出された。これは「雍正」という二文字の頭である「亠」と「一」を取り払っている上に、 「民所」の字で分断している、即ち雍正帝を呪っているとされ、関係者が処罰された。
Wikipedia中国の筆禍事件,おもに清代のそれを指していう。
異民族の王朝であった清朝は,漢民族に対する支配を確立するために,入関当初から強圧的な姿勢で臨んだ。
とくに民族意識の強い知識人に対してはそうであって,このためしばしば筆禍事件が起こった。
中国、清代の筆禍事件の総称。康煕・雍正・乾隆年間に満州族の清朝を批判する著述を厳しく弾圧、言論・学問を統制したが、考証学興隆の一因ともなった。
藤枝 (1999)、 講談社学術文庫p.68-69、
四 皇帝の文字 始皇帝の天下統一
(1991年岩波同時代ライブラリー版ではp55)
神の文字から万人の文字へ、という漢字の歴史の流れの中で、
「文字の側面から王位の尊厳を回復しようとした試み」
「文字はそもそも王が神をまつるときに使うものであった」
文字についての処置の一つが焚書坑儒、また、皇帝用の文字を篆書とし、皇帝以外の者が使う文字と区別した 臣下用は「隷書」