漢字の基礎知識

甲骨文(文字のおさらい 5)

最古の漢字として確実なものは殷代の甲骨文字である。
ただし、甲骨文字が中国における漢字の起源ではない。
漢字は自然・人事の現象を絵画的に表現した象形文字に端を発しているが、甲骨文字は純粋な象形文字ではなく、すでに少し発展した段階のものである。
董作賓は、「甲骨文の原形文字は更に1500年前に遡るであろう。」という

Wikipedia中国の書道史
殷(紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)

甲骨文字(亀甲獣骨文字)

漢字(Wikipedia)

現在存在する中での最古の漢字は、殷墟から発掘される甲骨などに刻まれた甲骨文字である。その内容は殷王朝第22代武丁の頃から書かれたものであるため、それ以前には新石器時代の遺跡等で発見される記号はあっても、文字として使用できる漢字が出来上がったのは約3300年前のこの頃だと考えられる(藤堂明保 『漢字の話』)

考古学的に現存する最古の漢字は、殷に於いて卜の結果を書き込むための使用された文字である。これを現在甲骨文字(亀甲獣骨文)と呼ぶ。甲骨文以前にも文字らしきものは存在していたが、これは漢字と系統を同じくするものがあるか定かではない。

この甲骨文字は物の見たままを描く象形文字であり、当時の甲骨文字は絵に近い様相を持つものも多かった。その一方で、ある種の事態を表現する動詞や形容詞の文字も存在した。例えば、「立」の原型である人が地面を表す横棒の上に書かれた字(指示文字)、女性が子供をあやす様から「好」や人が木のたもとにいる様から「休」などの字(会意文字)も既に含まれていた

婦好(ふこう)

「婦好」の甲骨文字
(落合淳思「甲骨文字小事典」p91)
人の姿をした文字

好=子どもを抱えた女

武丁(殷第23代王)の后の一人

武丁に先立ち死去し、婦好墓(河南省安陽市)に埋葬された。殷王族の墓の中では唯一盗掘をまぬがれ、1976年に発見された。墓内からは婦好が軍事権を握っていたことを示す鉞や、殷代には珍しい銅鏡、方鼎や長方彜など1,928件の文物が出土している。


有“妇好”铭文的鸮尊


Wikipediahttp://en.wikipedia.org/wiki/Tomb_of_Fu_Hao
1200 BC Shang tomb of Fu Haohttp://depts.washington.edu/


好
(白川静「常用解字」p189)



亞字形図象


亞(墓室か祭壇を上から見た形※)の中に
醜(鬼が酒つぼを手にしている図という)
※白川静は「亞」の字は、正方形の墓室の四隅をくり取った形であるとし、四隅をくり取るのはそこに悪霊が潜む恐れがあるからであろうという。
また、「霊に対する儀式を取り行う執行者を亞と行った。」
亞字形図象はその職に就いた人が、亞の中に氏族名を記したものを紋章のように使用していた。
「族長に次ぐ第二番目の人とされた。」
(白川静「常用解字」p003)

龍山文化

殷代・周代(あるいは殷の前にあったとされる夏代)の青銅器時代に入る過渡期であったと考えられる。
前期は紀元前3000年から紀元前2600年ごろで、紀元前2600年ごろから紀元前2000年ごろが後期とされる。

陶器の生産の効率の上昇は、出土する陶器の数や種類が前の文化に比べ増大したことにもみられ、鼎や鬲、鬹、高柄杯など、調理器や食器として使われた多様な黒陶・灰陶の陶器が出土している。

北京大学の劉緒と徐天進は、二里岡文化が早商文化であり、二里頭文化が夏文化であると推定。 中国考古学会は一期から三期までは拡大期で四期は衰退期とし、一期から二期までが夏王朝、三期以降は殷に入るとしている

二里頭文化にりとうぶんか、二里头文化à , Erlitou culture

紀元前2100年頃-紀元前1800年頃または紀元前1500年頃、 中国の黄河中流から下流を中心に栄えた新石器時代から青銅器時代初期にかけての文化
中国初期王朝時代の初期に都市や宮殿を築いた文化である。

大遗址保护论隋唐洛陽http://cms.1271.com.cn/default.aspx
二里头遗址
崑文化ウェブサイトhttp://www.weiweikl.com/LBWH71.htm

二里岡文化

考古学の進展により、二里岡文化(紀元前1600年頃 - 紀元前1400年頃)を殷と同定するのが通説

(いん、ピン音:yīn、紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)

文献には夏を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。最終的に紀元前11世紀に周に滅ぼされた。商(しょう、shāng)とも呼ばれる。


文化人類学部 文化人類学科/西江雅之教授 第6講 『ビールから学ぶ』http://www.kirin.co.jp/daigaku/CUL/NO6/page_8.html

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甲骨文の発見

鉄雲蔵亀

以下ことバンクより

1903年に,最初の甲骨文資料集である劉鶚の《鉄雲蔵亀》が出版され,1058片の資料が紹介された。編者の劉鶚はその序文のなかで,甲骨文中にあらわれる祖先名は,殷の人であると推定している。…

以下 wikipedia
劉 鶚(りゅう がく、Liu E、1857- 1909)、字は鉄雲

『鉄雲蔵亀』は収集した亀甲獣骨文字の図録であり、後の甲骨文字研究の基礎となった

from http://en.wikipedia.org/wiki/Liu_E

He collected five thousand oracle bone fragments, published the first volume of examples and rubbings in 1903, and correctly identified thirty-four oracle bone script characters.

《鉄雲蔵亀》の表紙など・・(書道関係)
http://syodou.exblog.jp/105195


林泰輔

林泰輔(1854-1922)『支那上代文研究』(1927)
以下Wikipedia

日本の甲骨学の先駆者。羅振玉の殷墟の発見に影響


羅振玉

羅振玉(1866-1940)『支那上代文研究』(1927)
以下Wikipedia

 


董作賓

以下Wikipediaより引用 董作賓(とう さくひん 1895~1963 清朝)

甲骨文字の研究の開拓者であり、羅振玉(号・雪堂)・王国維(号・観堂)・郭沫若(字・鼎堂)とともに甲骨四堂(甲骨学四堂とも)と称される。
1928年より河南省安陽小屯の殷墟の調査に従事し、出土した甲骨の研究を続けて甲骨学を大成した。甲骨文字をその様式により、5期に区分した功は大きい。

各期の字様にそれぞれ様式的な特徴がある。
第1期(武丁時代)…雄偉(ゆうい、大きく雄健である)
第2期(祖庚・祖甲時代)…謹飭(きんちょく、正しく生真面目である)
第3期(廩辛・康丁時代)…頽靡(たいび、崩れて弱い)
第4期(武乙・文丁時代)…勁峭(けいしょう、強く鋭い)
第5期(帝乙・帝辛時代)…厳整(げんせい、引き締まって整っている)

クレオパトラ


サーチボックスあり