2017年ITALYの一人旅:ガイド本を眺めて ・・地理・エリア分け 7つの丘とは?
ゲーテはポポロ門からローマに入り、一泊だけ、ホテル・デル・オルソdell'Orsoに泊まり、翌日からは旧知のドイツ人画家ティシュバインのアパートの一室(ポポロ広場から徒歩3分)で暮らすわけだが、ゲーテがローマでまず行ったところは、クイリナーレの丘のクィリナーレ宮殿であった、と牧野宣彦さんはいう。(「ゲーテ『イタリア紀行』を旅する」)
そして、最後の日、カピトリーノの丘(ローマの7つの丘で最も高い丘※Wikipedia)に登って、ローマに別れを告げる・・
そういうわけで(笑)私の旅もまた、最初と最後はそのように計画したいものだが・・
googleマップには恐れいりました、メインにgmailを使っているので、滞在ホテルに滞在予定日も出てくる。そして、経路をクリックすればそこまでの交通機関、徒歩の所要時間なども出てくるとは!
ウェブでは「ローマをお散歩」というサイトが、「エリアごとに歩く」ということで、用語集も備えていて、お散歩トイレ地図(!?)も良いですね。他に旅行記を検索します~。
※こちらのローマ在住の方は最も高いのはエスクィリーノの丘とのこと(現代の七丘に含まれていない)
ゲーテは馬車で8週間ほどかけて、アルプスを越えて南下してくるわけだが、当時外人がローマに入るには必ずポポロ門をくぐらねばならなかったという。・・してみると、現代のテルミニ駅から北上してゲーテ博物館行くのは邪道ですねぇ・・というわけで、初めに宿泊のテルミニ駅近くのラグジュアリーなホテルからではなく、後半宿泊のボルゲーゼ公園の近くのキッチン付きホテル(レジデンス)からの探検(もとい街歩き)の方にこちらは含めたい・・などと思っています。
とにかく、ゲーテはなんと生き生きとしていることか。
ボルゲーゼ美術館
ボルゲーゼ公園(「イギリス」庭園?)
ヴィラ・ジュリア国立博物館
国立近代美術館
ポポロ広場(オベリスク)
サンタ・マリア・デル・ポポロ教会(キージ家礼拝堂)
ピンチョの丘
ヴィラ・メディチ(イタリア庭園)
スペイン広場
キーツ・シェリー記念館
アラ・パチス
×「映画都市」、チネチッタ
?
×建築ミュージアム
7つの丘の覚え方、ということなのであるが、どうも7つじゃないのではないか?と思ったら、
「ローマの七丘」には3種類あって、
初期ローマの七丘(ラテン語: Septimontium セプティモンティウム)は、古代ローマのアゴナリア祭Agnaliaの一つで12月11日に祝われる「七丘祭」で 祝われる対象の「七丘」のことをいうとWikipediaに。
(4)オッピオ
(5)パラティウム(現在のパラティーノの丘の東側の部分)
(3)ヴェーリア
(1)ファグタル(オッピオの一部)
(7)ケルマルス(パラティーノの西側の部分)
(6)チェリオ(カエリウス)
(2)キスピウス
下図(By Cristiano64 (Own work) [CC BY-SA 3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], via Wikimedia Commons)に
番号を記入してみた。
もう一つのローマの七丘(Sette colli di Roma)はローマの市街中心部からテヴェレ川東に位置する、古代ローマ時代の七つの丘のことで、都市ローマの基礎を形作った、とWikipedia。
((1))アヴェンティーノ
((2))パラティーノ
((3))カンピドリオ
((7))チェリオ
((4))エスクイリーノ
((5))クイリナーレ
((6))ヴィミナーレ
そして、現代のローマ七丘とは
1 アヴェンティーノの丘 ( Aventino):テルミニ駅からは最も遠い丘 5世紀頃に起源を遡る
※(付近)サンタ・サビーナ聖堂、鍵穴(聖ヨハネ騎士団の館) 真実の口(S.M.イン・コスメディン教会) チルコ・マッシモ
2 パラティーノの丘 歴史が古い ローマ建国伝説の地 イタリア語や英語で宮殿(Palazzo, Palace)を意味する語の語源 フォルム・ロマヌムとフラウィウス円形闘技場(コロッセウム)と一体となった広大な屋外博物館
ファルネジアーニ庭園
3 カンピドリオの丘 (カピトリーノCapitolino):「キャピトル」( Capitol)はカンピドリオに由来、ローマの中心、
※ヴェネツィア広場 丘の前にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂
カピトリーニ美術館(世界最古の美術館) S.M.イン・アラチェリ教会
4 クイリナーレの丘 最も高い(紀元前1200年頃~) 中世は忘れられていた クイリナーレ宮殿は16世紀※コロンナ宮 ドーリア・パンフィーリ宮殿 バルベリーニ宮(国立古典絵画館)
5 ピンチョの丘 パノラマが広がる「庭園の丘」 ボルゲーゼ公園の端
※ ポポロ広場 S.M.デル・ポポロ教会 スペイン広場 コンドッティ通り アラ・パチス
6 ジャニコロの丘
※ローマ大学附属植物園 国立コルシーニ宮(美術館) S.M.イン・トランステヴェレ聖堂(ゴズマーティ様式)
7 オッピオの丘 広義にはエスクイリーノ(エスクイリヌス)の丘の一部
※ドムス・アウレア
以上を整理すると、
現代のローマの7つの丘には、古代のローマの市域の外である、ジャニコロの丘(テヴェレ川の左岸)、ピンチョの丘(ポポロ広場 ボルゲーゼ公園隣)が入っていること、(緑の丘名→赤い丘名→青い丘名で領域が拡大)
古代から共通なのはカンピドリオと、チェリオ、パラティーノ(古代は2つに数えていた)
ローマ時代だけ、エスクィリーノ、ウィミナリス(ヴィミナーレ)が入っている。
エスクィリーノというのは、Wikipediaによれば、七丘祭で祝われる対象のオッピウス、ファグタル、キスピウスの高台(丘)で、
ウィミナリス(ヴィミナーレ)は現代のテルミニ駅
のあたりで、古代ローマ時代はもっとも重要性が低かったとある・・・(笑)
ここでもう一つ疑問なのが、同じ地図上で「丘」に当たる部分が、同じ地図上であるのに、"mons"とcollis”とに表記があること。アヴェンティーノ、キスピウス、オッピオ、パラティーノ、ピンチョ、のイタリア表記はmons、 クイリナーレ、ヴィミナーレはcollis・・地図で3見ると、より高い方がmons?
山: montagna 丘:collin amontuosità, colle
図右上の部分は、丘というより繋がった山塊という感じも・・とにかく、地図上の距離の近さと実際に歩く時の坂道・階段のアップダウン(体力温存)は考えに入れておく・・
「ローマは世界の首都である」 byルーカーヌス(http://www.kitashirakawa.jp/taro/?p=4449)
※必見:コロッセオ、
ローマ、中心の空中写真https://en.wikipedia.org/:Picture found on Flickr , made byMartin G. Conde
テルミニ駅 (Stazione Termini) :イタリアで一番大きな駅、ヴィットリオ デ・シーカ監督の "終着駅"(1953) の舞台
駅正面チンクエチェント(五百人)広場の奥に"テルメ(Terme)"、テルメ・ディ・ディオクレツィアーノ(ディオクレティアヌス帝の浴場(跡) Terme di Diocleziano)がある=ローマ国立博物館-ディオクレティアヌス浴場、広場左に国立博物館マッシモ宮
駅構内と周辺は悪名高いスリや置き引きの仕事場→2016年6月に大改装、セキュリティー向上中の由。
セルウィウス城壁(Servian Wall-Termini Stationラテン語: Murus Servii Tullii、イタリア語: Mura serviane)の一部が残っている (上の丘の図の黒い点線 青い線は水道)
駅からいきなり「ローマの松」の景観も見られるようだ!何でしょうかね、あの形、唐傘松?
Wikipedia
ローマ、クィリナーレ宮殿の広場(カナレットの油彩画) (文化遺産オンライン 東京富士美術館所蔵)
「ギリシア神話の双子の神カストルとポリュデウケスの2つの巨像が壮大な宮殿に向いてそびえ立つ。」
ゲーテが見た二つの巨大な馬の像は今も、クイリナーレ広場のモンテ・カヴァロの噴水で見られるが、
衝撃を受けた、ティツィアーノの「マドンナ」などはヴァチカン美術館にあるという。
ゲーテに倣うなら、まず挨拶に行かねばならない思いのするところであるが、あるいは万神祭に間に合うようにローマに急いだ、ということであるから、パンテオンからにしようか。
あるいは、
古代ローマ(ローマ・アンティカ)憧憬旅人としてまずコロッセオ、フォロ・ロマーノ、パラティーノの丘に挨拶というのでもいいかな・・。
ゲーテがコロッセオに行ったのは、1786年の11月10日なので、随分後回しだった。その日も最初、ケスティウスのピラミッドに行き、古代ローマの遺跡はその後だったというから、だいぶ様子が違っていたのだろうかと思う・・
辻邦生は、ローマに着いたら、テヴェレ川にまず挨拶に行く、と言いましたね。(「美しい夏の行方」(中公文庫)
1788年4月、ゲーテは最後にカンピドーリオの丘に登って、ローマに別れを告げた、ということだが、現代では、別れを告げるのは、その丘の前にある、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世記念堂に登るのがいいのかな・・・?
カピトリーニ美術館&カンピドーリョ広場のマルクス・アウレリウスの騎馬像(ここのはレプリカ)などは、時間をかけざるを得ない。
アヴェンティーノの丘にある サヴェッロ公園 (Parco Savello Giardino degli Aranci) ※http://4travel.jp/travelogue/10235271あたりは、私にも一つのメインだ。眺望が良いようだ。
これについては、
カンポ・デフィオーリ広場から、
バルベリー宮でラファエロのフォルナリーナやリッピの聖母子を見て、
橋を渡って、
コルシーニ宮、ファルネジーナ・キージ荘
、ジャニコロの丘のローマ大学植物園へ・・などというコースを考えましたが、現時点、ここでヴァーチャルトリップも力尽きました、 アリデルベルチ(20170219)
(ゲーテは
サンタ・チェチェリア教会、ファルナジーニ荘には1786年11月17日に行ったようだ。)
サン・ピエトロ大聖堂
サン・ピエトロ広場
カステル・サンタンジェロ
ヴァチカン美術館
ヴァチカン諸庭園
5月28日(日)は無料公開日だが、ヴァチカンパス(オムニアカード)で31日の予約済で、2回の訪問時間はとれそうにない。
ヴァチカン関係に3日かけるつもりではあるけれど。(サン・ピエトロ大聖堂のクーポラにも登りたい)そこに、ゲーテの家とかスペイン階段のシェリー・キーツ美術館とか、あるいは他の美術館・教会なども、押し込むつもり。
ゲーテは、まず、1786年の11月9日に行っている。「
ベルヴェデーレの『アポロン』がぼくを現実界から拉し去った」11月22日にもシスティーナ礼拝堂に行っている。サン・ピエトロ大聖堂の屋上にも登っている。
ゲーテの時代、カピトリーノ美術館やヴァチカンにあるピオ・クレメンティーナ美術館などを、松明の明かりをつけて夜見学することが流行していたという。(そういえば、「グレート・ビューティー 追憶のローマ」(2013)の
http://greatbeauty-movie.com/で そういうシーンがあった・・(彫像を照らし生きているような怖いイメージ)
ゲーテは1786年のクリスマス・イブに聖アポリナーレ教会に行き、
1987年1月6日には、今は国立ローマ博物館にあるユーノーの頭部の模造を手に入れ、奴は、「ぼくのローマにおける最初の恋人」だという^^;※(google books)
そういう言うことならおみやげに買おう!?(有ったらね)
なお、ゲーテは1月18日はサンタ・マリア・マッジョーレ聖堂に行った・・・(「ゲーテ『イタリア紀行』を旅する」より)・・ サン・パオロ・フォーリレ・ムーラ教会には、1787年12月に行っている。教会名も結構出ているのをスルーしていたのだが(笑)ここで追加してみた・・・
少しだけローマの七丘なる地理がわかった所で、ゲーテの足跡を辿りつつもうちょっと足を伸ばしたいというところというと・・
ゲーテはフラスカーティに数日行って、1786年の11月17日に帰った・・というが、また1787年の秋にも行き、アルドブランディ-二候に招待されてランチをして、「フラスカーティは楽園である」という。その Villa Aldobrandiniの庭園はすごいようだ。レジョナーレで片道30分位ですね。近くのトローニア荘は日曜日しか公開していないようだが、そこは今は公園になっているというので、ローマの美術館が休みの月曜日に行っても良さそうだ。
ゲーテはナポリから帰ってからの第二次ローマ滞在と称される期間の、1787年6月16日に、ティヴォリの教皇グレゴリウスの別荘に行った。
ティボリは鉄道駅ローマ・ティブルティーナ駅(地図を見るとここに重要な門があったのだった)から、ローカル線で行ける近郊の街ということだが、
朝早く出て午前中に
ハドリアヌス別荘、午後、グレゴリウ荘、エステ荘
(月曜日は休み)ということで計画したい。http://visitaly.jp/unesco/villa-adriana-tivoli
(以上の近郊の旅はあくまで現時点の行けたらの計画で、基本余力のある場合に)
中世の街ヴィテルボ
この地名はゲーテには出てこない。
巡礼者の道、Via dei Pellegriniを中心に、
王の館と呼ばれるPalazzo dei Papiは13世紀に法王たちが住んでいたところだという。 http://roma-apiedi.com/
ヴィテルボに行きたいのは、ゲーテには関係ない。
ボマルツィオ怪獣公園とランテ荘に行きたいのである…‥
ボマルツィオには大変行きづらいようで、さりとて、マイバスとかで1時間だけの滞在というのも、マリオ・プラ-ツ(『ローマ百景』)にも、澁澤龍彦※(『滞欧日記』)にも悪い気がして!?結局フィレンツェからローマへの帰り道に入れることにしました。(なので実質的にローマ滞在は10日程度になってしまった…‥)
ここから、北のPIENZAは無理でもTUSCANIAのロマネスク教会S. Maria Maggiore、
(トゥスカーニアのサン・ピエトロ聖堂)にも行きたかったが、一度にそれは無理だろう・・
http://www.karakusamon.com/2014k/romanesque_ogata2.html
※池内紀さんの『ゲーテさんこんばんは』(集英社201年9月)に
「澁澤龍彦はゲーテの『イタリア紀行』が大好きだった。『どこでもいいからページを開いて読み出すと,ついやめられなくなってしまう。ゲーテの弾んだ気持ちがこちらに伝わってくるようで、こちらまで気持ちが明るくなってくる』」(P83)
「およそイメージが結びつかないのだが、その精神のかたちにおいて、わが国では、ゲーテ学者といった人よりも、澁澤龍彦が、最もゲーテと似ていたのではなかろうか。ともにプリニウスが好きで、生涯を通じて博物学的な関心が強かった。普通はモノ好きと呼ばれるような小さな事柄におしみなく好奇の目を注ぎ、おおらかな実証科学のなかに遊んで、楽しく文筆にいそしんだ」(p84)
「およそイメージが結びつかないのだが」という前置きがあるとおりなのだが・・・・・
「泉に背中を向けてにコインを投げ入れれば、ローマに再び戻ってくることができる。」
≪そもそもこの習慣はいつから始まった?≫
この習慣が生まれた最も有力な説と言われるのは、1800年代中頃、ローマに居たドイツの知識人たちが、水に住む神々へ贈り物をする、という鎮魂である古(いにしえ)の習慣を模倣し、トレヴィの泉ではコインを贈る「別れの儀式」を作り出したと言われています。from http://visitaly.jp/recommend/roma-fontana-di-trevi
19世紀のドイツの知識人ね。ゲーテより後ですね…‥はるばるグランドツァー・・
こちらも、「はるばる気分」はたっぷり・・5円玉を持っていけという人もいるが、投げるか投げないかはその時の自分に任せます…‥まだ全然辿り着けない気でいる・・(20170220)
https://ja.wikipedia.org/wiki/Category:イタリアの古都
http://www.polomusealelazio.beniculturali.it/index.php?it/142/istituti-e-luoghi-della-cultura
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