このページは「形の美」
というサイトの1コンテンツでした。
古代ローマ人の生活についても、・・・まずは形(スタイル)、服装からチェック!
ローマ人の「優雅」な衣装を見てみたいと思います。
「野蛮な」ではなく、「優雅な」印象があるのは、
長さと襞のせいでしょうか。
「皇帝の着用するトガには厳格な規則があった。」
〔古代ローマの正装用上着〕
古代ローマ市民がトゥニカの上に着用した平時の正装上着
弓形に裁った毛織地の直辺(5~6m)を折りたたみ、約三分の1を左肩から前に垂らし、残りは背中から右脇下を通して再び左肩から背に垂らして着装する。
(帝政期には右脇下ではなく右肩越しに布を回して右腕を覆い隠す着装方式が多くなった。)
女性も初期にはトガを着たが、
後には正装(ストラsutola)着用を許されない売笑婦などだけが着た。
(引用 平凡社大百科事典 後藤篤子)
右上の図はトガの説明に必ず引用される有名な像です。
ローマというとこの優雅なスタイルが思い浮かぶのですが、
ひとつ疑問がわいてくるのは、ローマより前のギリシアはどうだったか、衣装の違いが、私としては区別がよくついていない。
倒序的に見てみましょう。ギリシアについては別ページでチェックします。
togaの語源
ラテン語「おおい」の意
1トーガ 《古代のローマ市民が着たゆるやかな外衣; 男子は 15 歳になると成年のしるしに着用した》.
2(裁判官・教授などの)職服.
byウェブリオhttp://ejje.weblio.jp/content/toga
トガは帝政後期に至るまで公式行事での正装だったが、重たくてひだ取りも難しかったので、次第にギリシア風上着(パリウムpallium)が好まれるようになった。
時代と共にトガの形は凝ったものとなり、着方も難しくなった。そのために選ばれた奴隷が、特別な訓練を受けるほどであった。
(平凡社大百科事典 後藤篤子)
古代ローマの男性は膝丈のトゥニカの上にトガを着用したが、トガは重い上にひだ取りも難しかったため嫌われるようになり、皇帝達は公式行事の際のトガ着用を命じる勅令をださざるをえなかったほどで、トガに変わってパリウムpalliumというギリシア外衣が好まれるようになった。
また、袖なし・貫頭衣型の羊毛製も旅行用・雨天用に好まれた。
セウェルス朝時代には袖つきトゥニカから発展したダルマティカが流行した。 これは羊毛や亜麻、半絹、絹などで作られたゆったりした長袖つきの縦長の衣服で、 キリスト教の聖職者はこれを典礼用衣服とした。
女性はくるぶしまで届くトゥニカの上に外衣(ストラ)を着てウェストをベルトで締めた。 さらに肩から足まで達する長いショール(スッパルムsupparum)やパラpallaという幅広の長マントをブローチで留めて着用した。 ダルマティカは女性にも好まれた。
履物としては、兵士や農民用のカリガcaliga(釘打ちしてある革底に細帯状の革を何本かわたしたもの)、
くるぶしの上までを柔らかい革で覆う短靴(カルケウスcaleus)があり、トガやトゥニカに身分を表す縞があったと同様
このカルケウスもパトリキス用のものは最初赤い色で、後には黒い色で区別された。
またギリシア風サンダルも好まれた。
(平凡社大百科事典 後藤篤子)
〔古代ローマの下着〕⇒チュニック
古代ローマの男女が着用した羊毛製や亜麻製の下着。
家庭内や軍営などでは上着としても着られた。2枚の布地を肩と脇で縫い合わせたもので首から被り帯を締めた。
元来は袖なしで、袖つきのものでも短い半袖が主だが、
帝政期には長袖のもの(トゥニカ・マニカタtunica manicata)も現われた。
丈は一般男性は膝まで軍人用はそれより短く、女性用は足首近くまであった。
元老院議員用のものには緋色の太縞が1本、
騎士身分用のものには同色の細縞2本がついていた。
帝政期には2枚のトゥニカを重ね着することも多かった。
(平凡社大百科事典 後藤篤子)
その後2枚のトゥニカの下のものが下着(シュミーズ)になったという
左は 短いトゥニカ、両肩で留め、ウェストで二重に帯を締めひだを目立たせている。
右肩でとめる短い外衣(クラミュス)をつけている
右は長袖のトゥニカ
http://www.vroma.org/
archive of digital images
detail of the two male figures
one wears a toga and rests his hand on a military helmet,
and the other wears a long-sleeved tunic and a lacerna
(a military style cloak fastened at the shoulder with a fibula)
縦の長さが短くなってくると実用的ではあるけれど優雅さはなくなってきますね。
トガ (toga) とは古代ローマで下着であるトゥニカの上に着用された一枚布の上着の名称である。
「トーガ」とも表記される。
古代ギリシアのヒマティオンに似るがはるかに巨大
(ヒマティオンと比べて丈は2倍、幅にいたっては3倍近い)で、
ヒマティオンが両性が着用できるものであるのに対してトガはその発展に伴い男性服となっている。
その前身は古代ギリシアのヒマティオン模倣説や
同じくイタリア半島の古代国家エトルリアの長方形や半円形の布を使った同型の衣装からの発展説の2つが主流だが、
トガの最大の特徴は社会制度に深く結びついていたため身分標識としての発展が目覚しいことである。
ローマ初期共和国時代(紀元前6世紀から4世紀)には短いタイプのヒマティオン同様ごく小ぶりなトガが主流であったが
ローマが国力を増すのにしたがって徐々に大型化、共和政末期(紀元前3世紀から1世紀)には服制が定められて正式な公服となりトガの階層分化が進んだ。
ローマの最盛期である帝政前期にはトガも細かな形式の差異が出来、絢爛豪華なものとなったが
庶民層では長大化したトガの煩わしさが嫌われ徐々に衰退した。
帝政末期には急激に衰退し上流階級の間にわずかに着られるのみになり、
後のビザンチン時代には痕跡として布紐状のロールム (lorum) と呼ばれる装飾品として残るのみとなった。
このWikipediaで言及の文献は
●丹野郁 編『西洋服飾史』東京堂出版増訂版 (1999) 図説編(2003)
●千村典生『ファッションの歴史』鎌倉書房 (2009):古代エジプトやローマから現代まで、そのファッションの移り変わり
菅原珠子『絵画・文芸に見るヨーロッパ服飾史』朝倉書店(1991):ヨーロッパ近世、16世紀から19世紀までの服飾
●深井晃子監修『カラー版世界服飾史』美術出版社(2010):16世紀から21世紀までが中心
上記のローレムについて、ビザンチン時代ということで、これもページを変えます⇒後ほど
以下の書のテーマは古代よリ上の時代が主のようだが、徳井淑子さんの視点はいつもユニーク・・更に簡潔でわかりやすい。以下に目次を出してみると
第一章 身体の誇張
第二章 色彩感情と文様の意想
第三章 異国趣味とレトロ趣味
第四章 ジェンダー、下着、子ども服
この中で第二章のあたりは中世の色・文様ということで 「色のシンボルで『色で読む中世ヨーロッパ』(講談社選書メチエ 徳井 淑子著2006/6刊) を読みました
窄衣型の衣服は、実は古代文明を誇ったギリシア人やローマ人には見られなかった
地中海文明の彼らの衣服は一枚の布を身体に懸け、帯やブローチによって着付ける全身着である。
ローマ時代末期にズボンを着用するようになったのは、ゲルマン民族との接触に寄って、北方民族の服飾を知ったから
寒冷の地域に住むゲルマン民族は森の民として騎馬の習慣を持ったから、、足を別々にくるむズボンは更に都合が良かった。
ヨーロッパ服装の原型は後進のゲルマン民族の服装にあり、古代文明を開花させたギリシアやローマにはないのである。(p4)
古代ギリシアの衣服は、布地の裁断や縫製をほとんど行わない簡素な作りだが、ドレープの美しさは格別である。(p5)
Tシャツ型のチュニックの上に,幅2メートル、長さ6メートルの大きな布を巻きつけるのが、古代ローマの男性の外出着である。(図版:大英博物館のポッタリー・・そういえば、拙サイト関係では、ギリシアの陶器画のいろいろなページに裸のギリシア人の他に、服を着たギリシア人の絵がありました・・)
トガと呼ぶこの懸衣は、ギリシア服と同様に美しいドレーパリーを作ることが着こなしのポイント。布の形は半円形、台形。楕円形などが推測されているが、正確にはわかっていない。(図版:ローマ、[平和の祭壇] の人物群像 紀元1世紀、拙サイト関係では、 アラ・パキスの植物パターンのページから公式サイトにリンクしている。見に行きます。)
アインハルトの『カール大帝伝』によれば、、大帝の宮廷では、公式の服装として「ローマ風の長衣」が採用されていたようだが、彼は土地のゲルマン民族の服装を好んだという。上着と脚衣の二部形式こそゲルマン服飾の特徴であり、これにマントを羽織る服装が、その後の中世服飾の基本となる(p6)
徳井 淑子 (著)
風俗文化史研究
「服飾の「歴史をたどる世界地図」―現在のスタイルになった、意外なルーツと変遷とは? (KAWADE夢新書) 辻原康夫著2003年4月刊
「地誌研究家」
⇒遡ってギリシア人の服装についてはこちらに続きます。