漢文の素養


漢字・日本文化:


目次読書

漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか? (光文社新書) 加藤徹さんの本であるが、日本語と漢字、ではない、漢文のかかわりということで、ちょっとじっくり読んでみます(以下抜き書き)・・2006年2月刊で、私めは2006/7/17に購入とあるが(Amazon)・・再読
はじめに
漢文の素養
高位言語だった漢文
国民国家と国語
日本文明を見据える
「かって、漢文は東洋のエスペラントであった。」  イギリスやアメリカの学校に「古文」の授業はない。アルファベットでしか書けぬ西洋語は、文 字が発音の変化を忠実に反映しすぎて、綴りが百年単位で変動してしまうため、千年もたつと「外国語」になってしまう。(例 英語の最古の叙事詩『ベーオウルフ』8世紀の作品であるが、一般の英米人はこれを音読さえできない) われわれ同様人の先祖は「漢文の素養」つまり人類の集積知に自由にアクセスする能力を持っていた。
言語と教養の三層構造・・上流知識階級(公家・寺家、学者)は純正の漢文の読み書きができ、中流実務階級(武家、百姓町人の上層は、変体漢文を交えた「候文」を常用し、(長屋住まいの) 下層階級は無筆。ニュートンが『プリンキピア』(1687)をラテン語で書いたように、杉田玄白らも『解体新書」(1774)を純正漢文で書いた。
近代以前は漢文の素養の深さと、社会階級はかなり連動していた(中国も同様であった)
二十世紀は、戦争と革命の世紀。上流知識階級が没落。
日本がいち早く近代化に成功した主因は、中流実務階級が、江戸時代に漢文の素養を身につけたことにある
世界人口の四分の一を占める漢字文化圏で、日本の漢字文化は 漢字を「外国の文字」とは見なさない(中国でさえ非漢民族は漢字を異民族の文字とみなしている)
漢字に音読みと訓読みがある(日本以外では、漢字は「音読み」だけ
一つの漢字の音読みが、複数ある(日本以外の国では一字一音が原則)
漢字をもとに、いち早く民族固有の文字を創造した。(かな文字の発明は、ベトナムのチュノムや朝鮮半島のハングルより早かった
中国に漢語を逆輸出して「恩返し」をした、唯一の外国である (幕末・明治に日本人が作った「新漢語」は現代の中国でも普及している)
第一章 卑弥呼は漢字が書けたのか
幸か不幸か
大和民族の世界観
三千年以上前の対中関係
古代文明と文字
日本最古の漢字
漢字はファッションだった
卑弥呼は漢字が書けたか
倭も卑字
言霊思想が漢字を阻んだ
仁徳天皇陵の謎
ヤマト民族は、文明の入口に立った二千年前の弥生時代に、中国の漢字と出会った。
不運だった説・・むずかしい抽象的な概念は漢語を借りて済ませるようになった。和語(やまと言葉)は生長するチャンスを失われた。
幸運だった説・・少なくとも過去二度、日本文明に奇跡的な高度成長をもたらした。本格的に漢字文化を吸収し始めてわずか二百年後には世界一の巨大さを誇る木造建築と金銅仏を建造するまでになった(同時代のゲルマン人が、ラテン語文化の集積知を吸収して高度成長を遂げ、奥深い森を切り開いて西欧文明を気付いたのを、よく似ている)十九世紀半ば、近代西洋文明の衝撃が押し寄せたときも、漢字の造語力をフルに活用して、西洋文明のエッセンスをたちどころに理解した。
日本語は、高級な概念語は漢語で魂に触れるようなやさしい言葉は固有語(和語)で、という二段構造を持つ。これはむしろ長所である。ユニークな文字文化の形成に成功したのは日本だけ。
中国人は色彩感覚に敏感。古代の和語の世界は、まるで白黒映画。ヤマト民族は、漢字や漢詩文を学ぶことで、自らの頭の中身を改造して、「日本人」になった。

古代大和民族は、色彩語だけでなく、時空把握用語も、あまりもたなかった。(p27) 早いも速いも「はやし」

2003年5月、国立歴史民俗博物館は、弥生時代の開始が、従来の定説より五百年古く、紀元前十世紀にはじまったという新説を発表。(土木の放射性炭素年代測定法の結果)中国とか日本という国ができる(三千年以上)前から人の往来があった。
古代文明は「集約農業、都市、金属器、文字」の四点セットから成り立つ。中国では、一万年前に集約農業が生まれ、五千年前に都市が生まれ、四千年前に金属器が生まれ、三千四百年前に文字が生まれた。(それぞれの年代は、今後の考古学の発展によって、大幅にさかのぼる可能性があるが)文字の発生まで(古代エジプトでもシュメールでも)数千年かかる。
日本最古の漢字(鏡)吉野ヶ里遺跡・・前漢時代の直径7.4センチの小型の連弧文鏡(内行花文鏡)
「漢委奴国王」金印・・1984年福岡藩の志賀島で発見。儒学者亀井南冥が「この『奴』の字は、奴隷という意味ではなく、『の』という意味」とウソをついて、金印を無傷のまま守ったという逸話がある。 「貨泉」という中国渡来の銅貨が各地で出土している。 これら二千年前の日本最古の漢字遺物は、実用的な文字ではなく、威信材として入ってきた。
古代ヤマト民族は、漢字を、文字というより、ファッショナブルなマークのようなものとして認識していた可能性がある。 四世紀初頭までの漢字の遺跡は、いずれも出土品であり、伝世品は皆無。
中東では、最古の文字遺物は、行政・経済文書。(伝達媒体)
中国では(最古の漢字である甲骨文字は)権力者の威信材。(記録媒体)
日本列島では、そのいずれでもない。一種の装飾。
「魏志倭人伝」 (=正史『三国志』魏書・烏丸鮮卑東夷(うがんせんぴとうい)伝第三十の倭人の条) 卑弥呼や邪馬台国の読みに学問的な根拠はない。この漢字表記で一番の謎は、これが好字(佳字)が卑字かということ。卑字が多い。 卑弥呼も含め漢字の読み書きができなかったであろう。
「倭」も卑字。後世「和」「日本」という自称に切り替えた理由。現代日本人も「痴漢」「悪漢」などに漢民族の「漢」を当てているのであまり文句は言えない。 和語では「言(こと)」と「事(こと)」を区別しない。八世紀の『万葉集』の歌人たちは、日本を「事霊(ことだま言霊)の幸(さき)はう国」「事霊のたすくる国」「言挙げせぬ国」と詠んだ。先祖の事件や物語は語り部が暗誦し、稲束の記録は「結縄(けつじょう)」で間に合った。
文字記録に関する抑制現象はどこの国にもあった。古代インドでも崇高な教えは文字として記録して記録せず。仏教の経典は釈迦の入滅後数百年経ってから、「如是我聞」と始まる。西洋でも「旧約聖書」の神の名は「聖四文字(テトラグラマドン)」の子音しか伝わらない。
中島敦「文字禍」・・「文字の精霊にこきく使われる家僕」になる危険性
仁徳天皇陵・・墓誌名を嫌ったので、被葬者がだれか不明。エジプトでは四千年前の陵でもわかる。(しかし猛獣を表すヒエログリフは二つに立ち切って書く)
 
第二章 日本漢文の誕生
七支刀の時代
王仁と『千字文』
日本漢文の誕生
倭の五王の漢文
日本漢文の政治性
仏教伝来
漢字文化の夜明け
日出ずる処の天子
天皇号の発明
聖徳太子はどのように漢文を読んだか
日本語表記への苦心
訓点の登場
漢文訓読の功罪
外国=カラ(漢字は唐・韓など)、外国人=エビス( 胡子・夷・蛭子・恵比寿など)
カラはもともとは朝鮮南部の「加羅」(中国や朝鮮への玄関口)
四世紀ごろ日本列島をある程度統一した大和朝廷は、余勢をかって、四世紀後半にはカラ(朝鮮半島)まで出兵した。 (広開土王碑、『古事記』『日本書紀』の記録)
その結果の漢字の文物「七支刀」(天理市の石上神宮・・大和朝廷の武器庫だったともいう)=伝世品として残る最古の漢字遺物
応神天皇(在位四世紀末~五世紀初め?)は、百済に「もし賢い人物がいたら献上せよ」と命じた(『古事記』) 百済は和邇吉師(わにきし・・『日本書紀』では王仁(わに)) という人物に、『論語』十巻 、『千字文』一巻をつけて日本に送ってきたという。
『古事記』の記述の謙虚さ・・ 子ども用の学習教材を政府間レベルで輸入したなどと公言
王仁は日本語も巧み・・
難波津 に咲くやこの花冬ごもり今は春辺と咲くやこの花 という和歌を読む
紀貫之は弧の歌を和歌の父母のようなものと評している。
王仁の子孫は文首(ふみのおびと=書記の長)である西文(かわちのふみ)氏となった(墓:枚方市藤阪東町2丁目)
伝承の真偽は不明だが、古代の日本人は外国人に対する偏見をあまりもたなかったといえる
国境や国籍という概念がなかった時代なので 「帰化」人というより「渡来」人という呼称の方が多い 。
秦の始皇帝の子孫を自称する渡来人は秦氏(はたうじ)、漢の劉邦の子孫を自称する集団は漢氏(あやうじ)と名乗った 。はた=機織り 、あや=綾錦の新技術を持ってきた。服部(はっとり)=機織部の転嫁が語源。
五世紀の史部(ふひとべ)が書いた和化漢文の中で有名なもの:「稲荷山古墳出土鉄剣銘」
和の五王の幹部、外交文書、純正漢文、四六駢儷文(『宋書』倭国伝488年成立)五王の名はすべて好字 ・和王武(おそらく雄略天皇)
世界の文字起源・・政治・経済・文化のどれが契機になったか・・中東では交易や収穫などの経済活動。(古拙文字、楔形文字)ヨーロッパでは文化(布教)、古代日本では、政治・外交。自発的な輸入から)漢字や漢文は、五世紀まで日本人の精神世界に大きな影響を与えなかった。
紀元前5世紀に北インドで生まれた仏教は、6世紀にようやく日本列島に伝わる。仏教より先に、儒教を講義する「五経博士」は6世紀の初めに百済から招聘されていた。
仏陀=ホトケ、ホトは「仏」の6世紀当時の漢字音+ケ(目に見える状態にあるもの)
大した祖先神をもたない蘇我氏がいち早く受け入れる ソガ=「せまくて荒れた土地」、天皇家との血族結婚によって勢力を伸ばす
奈良時代、あすか(「夜明けの土地」)女帝推古天皇(在位592~628)の補佐聖徳太子
天皇後の発明:608
日中外交の基本パターンが決まったらしい・・相手国の態度を、自国の都合のよいように解釈し国内向けに宣伝、実務レベルでは、国書の改竄や隠匿で適当に処理
訓点を施した最古の文献資料は8世紀末ないし9世紀初めに現れる
我が国最古の史書・・聖徳太子『天皇記』「国記』(645年蘇我氏宗家滅亡消失)・・神道の言霊思想から自由だった。
最古の訓点の資料『華厳刊定記』(奈良時代末期783か788)
近年の「角筆研究」から、片仮名を含む訓点のルーツが、朝鮮(新羅)にある可能性が出てきた(小林芳規・広島大学名誉教授の研究)
訓点は日本でのみ生き残り、江戸から明治にかけて完成
漢文訓読否定論・・外国語だから、中国語で音読し、意味を理解した上で現代日本語に訳すべき。
肯定派・・長い年月をかけて作りあげられた定型訳読法で、昔の日本語も訓読によって育てられた部分がある。 直訳体なので、意訳のようなごまかしがきかない。一字一字の意味をきっちり把握するので、現代日本語訳より厳密に意味を把握できる。
 
第三章 日本文明ができるまで
藤原鎌足と漢文塾
元号制定
「日本」の誕生
習字の木簡
日本最初の漢詩
藤原京の失敗
「日本」承認への努力
「日本」の承認
地名の二字化
『古事記』と『日本書紀』
『日本書紀』の特徴
古代朝鮮語と『日本書紀』
漢詩集『懐風草』と漢風諡号
飛鳥時代、7世紀は、日本漢文の黎明期
「外圧」と「お雇い外国人」という二つの点で、明治に似ていた。 645年「大化」という元号を制定(中国からの独立宣言)
朝鮮民族は536年 独自の元号をたてたが、650年に中国に押し付けられた元号にしたがう
現在元号のあるのは日本だけ
「日本」という国名がいつ誕生したのかよくわからない
知られている限りでは大化元年7月『明神御宇日本天皇(あきつみかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと」 一説に「日本」という呼称は、大阪府東大阪市日下(くさか)町にちなむ命名という。
九州か東にすすんできた神武天皇の軍隊が、最初に近畿地方に上陸した場所
旭日昇天の意気込みが感じられる。7世紀後半、東アジア情勢緊迫。戦乱を避けて高句麗や百済から多数の知識人が日本に逃げてきた
生産財としての漢字文化普及
紙を和語で「カミ」と呼ぶのは、木簡の「簡」を日本風になまったというのが有力説
さすがの聖徳太子も漢詩を詠んだという話はない 日本 最初の漢詩は天智天皇の息子大友皇子(648~672)・・8世紀の漢詩集『懐風草』冒頭の詩
表現硬く、政治色濃い
天皇という称号が定着したのは、天武天皇(?~686)頃
天武天皇の皇后でもあった持統天皇の藤原京(橿原市)が初の瓦葺宮殿(漢文古典の理念を額面通りに受け取り、王宮を中央に作ったのが失敗)
702年遣隋使 ・・中国(武即天)が公式文書で、 「倭国」に代わって「日本」という国名を使用開始
712年太安万侶 『古事記』献進(元明天皇=天智天皇の第四皇女)
713年中国にならい地名を二字の好字の表記にする命令。
和語ヤマト=山処(山のあたり)
720年『古事記(元正天皇=元明天皇の娘)
「天下」(中国では)中国を中心とする文明圏  ⇒日本(鎖国が可能)(中国人には滑稽に言える)
『古事記』和化漢文『日本書紀』純正漢文(意図的に国際色を出す)
歴史=イデオロギー(中国人には)一義的な「定説」でなければならない
司馬遷『史記』、自分の見識と合致しない資料や異伝は切り捨てる
(後世の歴史家が「注釈」で異説を紹介することはあった)
『日本書紀』は定説の後、いちいち「一書(あるふみ)に曰く・・・」という異伝を記録している。
八世紀当時としては、世界的に見てもすぐれた歴史書である
古代朝鮮語の資料は少ない・・ 万葉集:4500首余に対し、 郷歌(ヒャンガ):20数首のみ
751年日本最古の漢詩集『懐風藻』
(『万葉集』(759年以降)より成立が早い) 戦車は大友皇子の曾孫淡海三船(722~785)説有力
歴代天皇の「漢風諡号」 を一括撰進した
神武天皇の国風諡号=(かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと)⇒優美だが長くて不便
特に偉大な天皇の諡号には神(神武、崇神すじん、応神)
皇統保持の上で節目となる天皇の諡号には、継体、持統などそれらしい名前をつけた
第四章 漢文の黄金時代
千の袈裟
「宣教師」ではなかった鑑真
三人の留学生
命懸けだった遣唐使
呉音と漢音
漢字音の複数化は奈良時代から
孫子の兵法
遣唐使の終わり
平安時代の漢文の試験
宋の皇帝が羨んだ天皇制
清少納言と紫式部
源義家と孫子の兵法
  長尾王(684?~729自殺) 天武天皇、天智天皇の孫、奈良時代前期の裕福な政治家)の中国へのプレゼント、千人分の袈裟=数十億円の投資
=鑑真和上が来た理由
キリスト教の「宣教師」=「未開」「異端」の国にわたる
来日僧は、日本側の招請を受けてやってきた。明治の「お雇い外国人」も招請
遣唐使(四の船 四隻の船団)
吉備真備(695-775) 阿倍仲麻呂(698-770) 井真成(699-734)のあり方
呉音(5~6世紀日本に流入した漢字音 南北朝の南朝式)・・僧侶階級が固執した
漢音(7世紀~長安)・・新興学者
同じ単語に複数の読みがあり、微妙に意味が変わる
遣唐使の廃止はある意味日中交流の発展的解消(9世紀造船・航海術の進歩)
血筋や門閥が重視された日本社会では科挙制度は成り立たなかった。しかし漢文の素養は重視された
984 日本の僧侶奝然(ちょうねん938~1016)が宋(太宗)へ僧侶ルート栄西など多数の相が入宋(遣宋使はなし)
第五章 中世の漢詩文
中世の漢詩文と僧侶階級
日蓮の漢文
フビライの国書
後醍醐天皇と児島高徳
洪武帝と日本人
絶海と洪武帝
室町時代の漢詩
戦国武将と漢詩
日本史では、鎌倉・室町時代を「中世」と呼ぶ。中世の日本は統一国家ではなかった。家漢詩文の正統は寺家(僧侶階級)が守った
実に五百年にわたり、国家の主権を巡って公家・寺家・武家の熾烈な階級闘争が続いた。このような国は漢字文化圏では日本だけ。副産物として世界的に見ても充実した中流実務階級が形成された。
中国人や韓国人が驚くことは、 僧侶が儒学も担当していたこと。
インドの仏教と、孔子・孟子の教えは 本来 水と油。
中世の終了と共に、日本もヨーロッパも、学芸の主流は中流実務階級の手に。
日蓮(1222-1282)『立正安国論』(純正漢文)
モンゴルの侵攻をうけた高麗や南宋の惨状について、全総を通じて知っていた
弘安の役(元寇の二回目)のブレーンは南宋から渡来していた無学祖元(1226-1286)
日本人は漢文のフビライの国書の行間を読み相手の意図を読み取る読解力をもっていた
14世紀の吉田兼好「唐のものは、薬の外(他)は、みななくともことかくまじ (自信)
1368年明王朝洪武帝の国書を九州の懐良親王(かねながしんのう 後醍醐天皇の皇子1329-1383)が握りつぶす。 返信の痛快な文が「明史』に収録されている。 「ただ中華にのみこれ主ありて、あに夷狄には君無からんや。乾坤浩蕩 (天地は広大です)一主の独権するところにあらず。」
中国と日本の 統治者同士の関係は慢性的にしっくりとしなったが民間の交流は盛んであった。
1376年五山の禅僧絶海中律(ぜっかいちゅうしん1336-1405)
紀元前3世紀、秦の始皇帝の命令で東の海にむかったまま消息不明となった徐福は、日本民族の祖先になった(と広く信じられていた)
1404足利三代将軍義満が使節を送り「日本国王」服属表明「勘合貿易」開始 (四代将軍義持は国王の名義返上)
一休宋純(1394-1481)漢詩集『狂雲集』
1467応仁の乱で公家や僧侶が地方に逃がれ漢詩文の文化が地方に広まる 応仁の乱以後100年間「戦国時代」武将の 武田信玄(1521-1573)、 上杉謙信(1530-1578)、 直江兼継(1560-1619)、 伊達政宗(1567-1636)など立派な漢詩文を遺している
兼継は漢文の書籍の収集と保存にも力を入れ江戸時代の漢文ブームの魁となった。

馬上 少年過ぐ
世 平らかにして 白髪多し
残躯 天の赦す所
楽しまずんば是れ如何せん(正宗)

第六章 江戸の漢文ブームと近現代
徳川家康が利用した「漢文の力」
江戸時代の漢文ブーム
思想戦としての元禄赤穂事件
四十七士を詠んだ漢詩
朝鮮漢文と日本
武士と漢詩文
農民も漢文を学んだ
日本漢語と中国
幕末・明治の知識人
日本語の標準となった漢文訓読調
漢文が衰退した大正時代
漢文レベルのさらなる低下と敗戦
漢文訓読調の終焉
昭和・平成の漢文的教養
徳川家康(1542-1616)の政権が、264年間も存続できた秘訣は「漢文の力」を利用したことにある
若き日の家康は、「孫子の兵法」に精通した武田信玄と交戦し生涯最大の大敗を喫した。
武田家滅亡後武田家の遺臣を召し抱え信玄の兵法や軍略を研究させた。 藤原?窩や林羅山などの儒学者を重用し、儒学の一派「朱子学」を幕府の官学とする道を開いた。下克上の連鎖を断ち切り、武士を「日本版士大夫階級」に作りかえる
「文字の獄」によって政敵を滅ぼす。
日本史上「漢文の力」を活用して日本人の思想改造に成功した統治者は、聖徳太子と徳川家康の二人であった。
大石良雄は、軍学を山鹿素行に漢学を伊藤仁斎(1626-1705)に学ぶ
浅野長矩が吉良義央を斬りつけるという事件に、文治政治を促進していた綱吉が激怒し赤穂藩を撮りつぶした。大石ら赤穂浪士は、吉良の首級を挙げて本懐を遂げたあと、彼らはあえて切腹せず、自らの最低を幕府にゆだねた。
真の敵である綱吉を苦しめるため思想戦を挑んだのである。 実際、綱吉は非常に苦しんだ。 朱子学の立場からすれば、身命を顧みず主君の敵を討った大石らは義士である。 処刑しても斜面しても、いずれにせよ、権威は大きく傷つけられることになる。 荻生徂徠の意見で切腹させた。綱吉は暗君として庶民の人気がない。
大塩平八郎など四十七士を詠んだ漢詩も多い
朝鮮国王が徳川将軍の代替わりの際などに日本に派遣した「朝鮮通信使]、日本側文人と漢詩の応酬 (1607~1811まで11回)
鎖国していたが、朝鮮や中国から漢籍を輸入。中国で読めない漢籍が日本では簡単に手に入った。 『揚州十日記」や『嘉定屠城紀略』などを留学していた魯迅が書き写して中国に送った。
家康の孫の光圀が、漢文の『大日本史』編纂、幕末の 討幕運動の原動力の一つとなった「水戸学」の流れを創始した
和製漢語(日本人の生活に密着した独特の漢語で中国人が読んでもわからないものが多い)
新漢語(近代西洋の概念や文物を翻訳する過程で日本人が考案、中国や朝鮮にも輸出されたもの)
以上の二つを総称ー日本漢語
現代中国の「高級語彙」は半分以上が日本漢語
「金融」「投資」「抽象」などなどなど漢字を創造的に「すり替え」もう一つの漢字王国を樹立し、 中国に『恩返し』
数々の新漢語を創始した西周(にしあまね1825-1897)、福沢諭吉(1835-1901)、中江兆民(1847-1901)
生産材 としての漢詩文
明治の国民的文体は、漢文訓読調
漢文の衰退した大正時代から、原文一致の口語体
今日の中国で、パソコンやインターネット関連の用語をどんどん「新漢語」に置き換え、自国民にわかりやすいものにしている様子を見るとかっての明治期の日本のような勢いを感じる。 今日の日本に中流実務階級は、かっての漢文のような強力な教養をバックボーンとして持っていない。 共通して持っているのはマンガやアニメなどのサブカルチャーだけである。  中流実務階級そのものが崩壊の危機に瀕している。
おわりに
今こそ漢文的素養を見直そう
漢字漢文はコメのようなもの
インターネット時代の理想の漢文教科書
生産財としての教養
中流実務階級 と漢文の衰退
数冊の本
二千年前「威信材」として入ってきた漢文は、7~19世紀までは「生産財」として機能し、20世紀からは「消費財としての教養」となった。
今日でも漢文は「古くて新しい知恵」の宝庫である。
『漢文力』(中央公論新社)は思考力を高めるのに役立つ漢詩漢文を集めた。
中流実務階級(しいて訳せばシビリアンcivilian)
西洋近代の文明(シビライゼーションcivilization)の本質は、中流実務階級(シビリアン)中心の国づくりをすることで、キリスト教徒的な行動倫理と、ギリシヤ・ローマ的教養、シシビリアンとしての誇りという三点セットが支えた。
武士道的な行動倫理と、漢文的素養そして「やまとだましい」という三点セットが幕末から明治にかけての日本を近代国家におしあげた。今は崩壊している。
過去の文明国は、どの国も全国民必読の「数冊の本」を持っていた。過去の西洋諸国では『旧約聖書』『新約聖書』、幕末の日本では『論語』『日本外史』
読書は教養ではなく社会を作るという大事業に参加するための力であった
集積知としてだれもが共有していた教養体系が失われてしまった
東アジアの三国の民衆は かってのような共有できる教養がないので、たがいに不信と侮蔑をぶつけ合っている。 東洋人の集積知足る漢文を学ぶならば、二十一世紀の教養のあり方について多いなるヒントを得ることができるだろう />
※威信+材料、 生産+財産、材料でない?、消費財は消費財


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