Adoration of the Magi
東方三博士の礼拝(1475年)
こっちを見ているのが、彼でした。 それにしても 左の書(1985年 NHK出版刊 NHK「世界美術館紀行」取材班編)p17
ウフィツィ美術館の中庭に並ぶ柱には、ルネサンス時代、フィレンツェで活躍した芸術家の肖像が収められています。しかし、ここにはボッティチェリの肖像は見当たりません。ボッティチェリは孤独のうちに世を去り、十九世紀末に再評価されるまで、長い間忘れ去られていたからです。
まさか、現代のイタリアのイメージを代表するかのようなヴィーナス像を描き、これほど人気のあるボッティチェリが、本拠地のフィレンツェでそういう扱いをされる存在に落ちぶれていたとは・・・
1500年という新世紀を迎えたころから十年間、ほとんど絵を描かなかったといわれる。 ボッティチェリの真髄を伝える作品がメディチ家の別荘に秘蔵されていたせいであろうかという解説がp33にあるが・・・、それにしても。 19世紀以降、美術史家が高く評価した割には、ヨーロッパの画家たちがボッティチェリの影響を受けたという話をあまり聞かない。堅牢なものを重んじるヨーロッパの芸術家たちの志向に合わないのではないか ・・ともある。(p46)
不安感と空虚感。美しい絵画だが、見る者を不安にさせる。フィレンツェに迫りくる社会不安を敏感に感じ取っていたかに見える(p46) ボッティチェリ Sandro Botticelli (1444/45~1510)http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_works_by_Sandro_Botticelli |
1473年から1474年にかけて制作された《東方三博士の礼拝》はアナモルフォーシス画法の一例である。この作品を見るには、それを水平に置く必要がある。
・・・・・?? なんと・・・??水平に置かないと作品が見えないとは??これいかに(~_~;)
wikipedia(20170304参照)、
「それまでヨーロッパはボッティチェリを受け入れるだけの多様性の素地に欠けていたため、その名はあまり知られることはなかった。
19世紀イギリスのラファエル前派に注目されたことから名声が広まったという経緯がある。 」
・・と言う記述である。
受け入れるだけの多様性の素地という意味がよくわからないのだが・・?
「芸術家列伝」(ヴァザーリ(1511-74))にはちゃんと取り上げられている
【第2巻】
後期ルネサンスを代表する六人(ボッティチェルリ、マンテーニャ、ジョルジョーネ、ラファエルロ、アンドレーア・デル・サルト、ティツィアーノ)の伝記を収録。