図説 中世ヨーロッパの暮らし (ふくろうの本)
河原 温, 堀越 宏一 (著),河出書房新社 2015/2/23刊
内容(「BOOK」データベースより)
中世庶民の一日、一年、一生。食事、衣服、住居、農耕、牧畜、商工業、自治、祝祭―農村と都市の、活気に満ちた日常生活を豊富な図版でたどるヴィジュアルガイド。・・
この本は、2021年開講の放送大学の「都市から見るヨーロッパ史」の参考書の一つ。
第2部のみ詳しく見ておきたい。(摘読)
bookmeterによれば、「世界史リブレット」(山川出版社)でも同じテーマでモノグラフを書いている(河原『中世ヨーロッパの都市世界』、堀越『中世ヨーロッパの農村世界』)・・とあるが、序章のシエナの広間の絵は、中公新書の『シエナ―夢見るゴシック都市』池上俊一著で見たところで、見に行きたいと思っている。
20211007
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第1部 農村の暮らし
第1章 中世農村の誕生
第2章 農民と領主
コラム1 バスティード
第3章 村の姿
第4章 農民の仕事
コラム2 農事暦に見る農民の一年
第2部 都市の暮らし
第5章 中世都市の誕生
第6章 都市の労働
コラム3 物書き商人の世界
コラム4 15世紀ブルッヘの画家
第3部 中世人の日常
第7章 中世の人々の一年と一生
コラム5 聖マルティヌス兄弟会と貧民救済
コラム6 中世都市の風紀規制
第8章 衣食住
コラム7 中世フランスの石造の町家
コラム8 中世都市貴族の邸宅
あとがき
参考文献・図版引用文献一覧
イタリア トスカーナ地方のシエナの市庁舎広間
(九人衆の間 Sala dei Nove)
善政と悪政、シティイとカントリーサイド
Sala amb frescos d'Ambrogio Lorenzetti, Palazzo Pubblico de Siena
Ambrogio Lorenzetti - Bad Government and the Effects of Bad Government
on the City Life 都市の部分
ロレンツェッティ《善政と悪政の図》 シエナ市庁舎広間
(p3)
Ambrogio Lorenzetti (c. 1290 - 1348)
The Allegory of Good and Bad Government (フレスコ画)
第一部
当時のヨー「ロッパ人口の大半が暮らしていた農村世界
13世紀にとりわけ都市の社会経済的発展がピークに達し、大学の創設や托鉢修道会の展開に示されるような、社会全体の変化が起こるまで、ヨーロッパは農村を中心として動いていた。
その農村も、13世紀のうちに中世農村としての完成域に達する。
18世紀に産業革命が始まるまで、農村における変化は小さかった。
第二部
都市は12世紀以降、とりわけ地域の拠点として成長し、
王侯貴族による領域支配のなかで、商工業者を中心に農民と共に「働くもの」という第三身分を形成していくことになる。
第三部
農村と都市の人々の日常生活の諸相をまとめる
農業以外の生業に従事する人も農村においいて活動していた。
食物や嗜好品、奢侈品などを商う商人、鍛冶職のような手工業者が必要とされたから。
そうした「商工業者」が次第に一定の場所に定住していった。
彼らが集住し定着した空間こそ、都市という世界であった。
四世紀以降進行したロ―マ帝国の崩壊
→
ローマ的都市の伝統は、イタリア半島や南フランスを初めとする地中海沿岸の地域では、引き継がれていった。
ヨーロッパの主要な都市(パリやマルセイユ、ケルンやトリ―ア、ローマやナポリ)6世紀以降も地域の中心地として存続。
多くのローマ期の都市は、中世初期には放棄されたり、市域を縮小した。
中世初期に都市を維持したのは、カトリック教会。とりわけ司教の存在が古代から中世への都市の一定の連続性を維持するのに貢献した。
北西ヨーロッパを中心に世俗領主や修道院が所領の寄進や開発によって土地所有を拡大。
地域の拠点となるような場所に市場が開かれ、集落の発展がみられるようになった。
領主の城砦や修道院が地域の軍事的防衛拠点として機能し、守られた空間を作り出したことで、人々が集住するようになる。
(例)
もともと古代ローマの司教座(キヴィタス)であった北フランスのアラス(wikipedia)は、
7世紀に創建されたサン=ヴァースト修道院の立地により、
都市の重心が司教座(キヴィタス)からサン=ヴァースト修道院を中心とするブルグスと呼ばれる空間に移り、ブルグスを中心に中世の都市空間が発展していった。
アラスにある2つの建築物が、UNESCOの世界遺産に登録されている。
かってベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌ(wikipedia)は、、
カロリング時代以降の西ヨーロッパがイスラームの地中海進出によって商業活動の場を失って閉鎖的な自給自足的経済へと退化したとみなし、都市生活と商業活動の衰退を強調したが、
近年では、
むしろカロリング時代こそ、農業の発展を背景に、余剰を取引する市場が多数生まれ、人々の集まる場が形成され、
商品=貨幣流通が進展したことが強調されるようになってきた。
カール大帝による銀本位制の採用は、国際商業の衰退のためというより、銀貨という少額貨幣の流通による地域経済の活性化を反映したものだったとみなされるようになってきた。
貨幣の造幣所の多くは、都市的な集落に設けられて、10世紀以降、地域の中心地としての都市の発展に貢献した。
ベルギーの中世史家アンリ=ピレンヌが提唱した言葉 ピレンヌが『マホメットとシャルルマーニュ』(1922)などの論文で発表。彼は西欧中世の始まりをゲルマン民族の侵入と西ローマ帝国の滅亡にあるのではなく,カロリング朝時代のイスラーム教徒の地中海進出・制覇と地中海貿易の途絶にあるとした。この結果,西欧は地中海から切り離されて,内陸農業国家へと変質し,カール大帝(シャルルマーニュ)がこれに対応した国家建設を行ったと考える。したがって,カール大帝の登場は,イスラーム勢力の進出という外部の衝撃なくしてはありえなかったと説く。彼の学説は大きな反響を呼び,その後批判説も出されたが,イスラーム勢力の地中海世界進出が西欧中世史に影響をおよぼしたという視点は,評価されている。(コトバンク)
修道院も、地域経済の拠点として都市的集落の形成・発展を促進
(例)
スイスのザンクト・ガレン修道院(wikipedia)の建設プラン(9世紀)
巡礼宿所や医療処置の場もあり、巡礼や貧者などに開かれた施設が目指されていたことがうかがわれる。
10-11世紀以降展開された農業革命(開墾の発展と農具の改良、三圃制農業経営システムの発展など)と、
鉱業(銀、鉄の採掘)の発展、
商業活動の活性化等を背景に、
商人や職人が地域の中心地としての都市的集落に集まるようになった。
北西ヨーロッパでは、毛織物工業をはじめとする手工業の勃興が、フランドル地方や北フランス地方をはじめとする多くの中世都市の発展と拡大を引き起こすことになった。
紀元1000年以降、北からのヴァイキング(ノルマン人)の侵攻や、東方からの遊牧民族の西進もやんで、西ヨーロッパに相対的な平和が回復された。
東地中海と北西ヨーロッパにおける南北それぞれの商業活動の活性化は、この時期の都市の発展を著しく促進した。
地中海世界
イタリア半島の港町(アマルフィ、ピサ、ジェノヴァなど)を中心に海洋交易が発展。
海港アマルフィはビザンツ帝国(コンスタンチノーブル)との交易で栄え、ヨーロッパ最古の航海法が制定された。
ジェノヴァやピサ、ヴェンツィアも11世紀以降、東西地中海世界での交易で繁栄し、いち早くコムーネと呼ばれる自治都市を作り上げた。
北西ヨーロッパ
大陸とイングランド、スカンディナヴィアとの交易が盛んとなり、10世紀以前から数多くの商人定住地の発展が見られた。
どれシュタット、ティール、カントヴィクをはじめ多くの商業地が生まれては消えた。
かって考えられたほど商業活動のみが都市を生み出したわけではない。
都市の生成発展には、様々な要因が絡んでいた。
当該の場所が地域の中心地機能を持つことが必要であった。
中心地機能とは、特定の場が周辺地域において、何らか(軍事的、経済的、宗教的、政治的)の吸引力を発揮して人々をひきつけ、人々の集住する場となっていく機能であり、古代都市とは異なる新たな都市風景を生み出した。
中世の都市は、地域の手工業生産、消費、交換市場の中心として、また崇敬される聖人の聖遺物の安置された教会・修道院を擁する宗教的中心地として、11世紀以降発展していった。
その中で、パリはセーヌ川中流に位置するフランス王国の政治的首都としての位置を占め、北西ヨーロッパ最大の都市となっていった。
団体形成の場11世紀以降、ヨーロッパにおいて都市が形成されていく中で、都市に定住した住民たちは、特定の団体を組織し、各自の権利と安全を確保しようと試みた。
その先駆けが商人たちの団体(ギルド)である。
最古のギルドは、11世紀前半(1020年頃)の商業都市ティ―ル(北部ネーデルランド)に存在した。
ギルドは、本来、相互扶助の仲間団体。語源となった古代北欧語(ギルディ)は「宴会」「祝祭」などを意味した。
商人ギルド規約の最古(1100年頃)ごろ北フランスのサン・トメールの規約に、商人たちによる市内の秩序維持、親睦のための宴会の開催、市内での暴力の禁止、市内の道や市門の整備費用の供出規定など、都市の共同体形成を促進する規定が含まれていた。
しかし、商人ギルドはどの都市にも存在していたわけではなく、商人以外の都市住民を含むような広範な組織ではなかった事から、そのまま中世都市自治体一般を形成する要因とはならなかった。
北西ヨーロッパの都市における住民の自治体形成にとってむしろ重要であったのは、参審人(エシュヴァン)と称された初期中世の時代から存在した領主裁判における役人(審判者)。
もともとカロリング時代の荘園制度の中で、司教や諸侯といった領主のもとで裁判を司る役人(判決発見人)として機能していたが、12世紀以降、経済的拠点となった都市的集落を支配した都市領主の役人として、都市住民の裁判機構を司るようになっていった。
現代でも、北フランスやベルギーにおいて、エシュヴァン(仏蘭西語)、スヘーベン(阿蘭陀語)という言葉が自治体の役職(助役)として残されていることからも、中世都市の制度的伝統が、今日まで存続していることがうかがえる。
イタリアでは、11世紀以降、
都市の自治的制度は、コンソリ(執政職)と呼ばれる役職によって担われた。ジェノバやピサ、ミラノなど、コンソリ職を中心に、自治権を得た都市を意味するコムーネは、都市のみならず、周辺領域(コンタード)も裁判管轄領域として支配するようになった。
11世紀以降欧羅巴における都市化のプロセスは、北西ヨーロッパと北イタリアを中心に進展。
中世中期までのヨーロッパが基本的に荘園を中心とする農村社会であり、働く者のうち農民が多数を占めていたことは確かであるが、14世紀初頭までには、大陸ヨーロッパの人口7500万人の約20%にあたる1500万人以上が都市に居住していたと見積もられている。
ヨーロッパの個別の都市の人口規模も、同時代の中国やイスラーム世界の諸都市に比べれば小さかった。
それでも1300~50年に推計、
「特大都市」パリ(20万)、ミラノ(10~15万)、フィレンツェ(10から12万)、ヴェネツィア(12万)、ジェノヴァ(10万)など、
4万人以上のインターローカルな「大都市」として、ロンドン、ケルン、ヘント、ブルッヘ、ピサなど
いずれの大都市も毛織物、金属加工業や遠隔地商業、金融業など商工業の拠点として形成された。
人口200人から1万人程度の「中都市」、2000人以下の「小都市」がフランスや神聖ローマ手一国のといsの80%以上を占めていた。
中小都市のつながりやネットワーク機能が、広大な農村世界のうちに出現した非農業的集落としての都市空間のありようを規定していた。ヨーロッパの都市風景の原型はこの時代にさかのぼることができる
都市讃歌(ラウダティオ・ウルビス)というジャンルは、12世紀以降より明確に都市民の自己意識や誇りを語るものになっていった。
代表作『ミラノの偉大さについて』(ボンヴェシン・ダ・ラ・リーヴァ(1240~1313)そこには「数字をして語らしめる」という新たな(「ブルジョワ的」)心性が見られる。こうした都市記述のスタイルは14世紀のフィレンツェの著名な「物書き商人」ジョヴァンニ・ヴィッラーニの『新年代記』(ヌォーヴァ・クロニカ)に引き継がれていくことになる。
11世紀以来、ヨーロッパの修道院で作成された世界図(マッパ・ムンディ)につい見ると、都市のイメージは極めて曖昧。
マインツのハインリヒによる世界図(1150年頃)では、イエルサルムとローマ、サンティアゴ・デ・コンポステラの三大巡礼地のほか、都市司教座都市5つのみ。
13世紀半ば、イングランドのセント・オーバンズ修道士マシュー・パリス『大年代記』(クロニカ・マヨール)いエルサレム巡礼の為の旅程図に描かれた都市絵図。ロンドンから大陸の北フランス、イタリアを経て、パレスティナの港市アッコンまでルート沿いの都市描かれ、それぞれ都市を囲む市壁と主要な教会、塔状の建築が素描されている。
13世紀から14世紀にかけて、イタリアでは聖母マリアや司教などの守護により都市全体が守られているという構図で「聖なる都市」のイメージが描かれるようになる。
代表的な画家、タッデオ・ディ・バルトロ サン・ジミニャーノの図(1393年頃)
「聖なる都市」のイメージをは対照的に、教会知識人によって娯楽と奢侈、犯罪と暴力に満ちた「悪徳の場」(バビロン)としてイメージされてもいた。
既に12世紀のライン地方の修道院長ドイツのル―ベルトやシトー会修道院長のクレルヴォ―のベルナールら著名な教会人は、都市を悪の巣窟とみなし、避難を加えていた。
「悪徳の場」としての都市イメージの背景には、商品=貨幣流通の拠点、商業活動の拠点としての都市のはらむキリスト教倫理との相克が存在した。魂の救済への障害として、貨幣による富の蓄積を非難した。そのため、都市の商人たちは、商業・金融業による富の獲得をいかに正当化するかという課題に直面した。
富をめぐる両義的な意識の相克において、
12世紀以降、天国と地獄の中間の領域として「煉獄」の観念が神学者たちによって導入されていったことは極めて重要な変化であった。(J・ル・ゴフ『煉獄の誕生』(Amazon))
生前に喜捨を行なったものはその贖罪の行為によって「煉獄」から「天国」に導かれうる。
この論理を推し進め、都市の存在と商業・金融活動を肯定しながら都市民へ向けた救済のための説教活動を行ったのが、13世紀に登場したフランシスコ会をはじめとする托鉢修道会。
市壁が「中世都市の最も重要な物理的、象徴的要素であった」(J・ル・ゴフ)
囲む行為
都市の統合と威信の象徴
都市の内部と外部(農村)をつなぐ境界的役割
壁、門、塔の三つの要素からなる。維持に多大な費用と労力が費やされた
誰もが立ち入ることができる場、公共的な空間、
教会(カテドラル)、広場、市場、街路、公共建築
都市にとって本質的な要素となったのが市場広場(中心広場)
(例)
フランドル都市ブルッヘの広場、ブルッヘ広場とフローテ・マルクト
商工業活動の中心であっただけでなく、政治的な場、イベントが行われた。
イタリアの都市には今でも数多くの美しい広場(ピアッツア)が存在する。
トスカーナ地方の中世都市シエナのカンポ広場はユニークな形。一説には、都市の守護聖人である、聖母マリアのマントのかたちを表現しているとされ、天上の神秘と地上の現実世界の融合する場であったという解釈は広場空間の有する象徴性を改めて明らかにしてくれる。(池上俊一『シエナ―夢見るゴシック都市』)
中世ヨーロッパの都市は、かってその自治的性格が強調され、都市の司法、行政、立法の要として市庁舎の建物はその象徴となってきた。
大聖堂(カテドラル教会)司教座に設けられた首座教会である大聖堂(カテドラル)は、12世紀後半にキタフランスのサン・ドニで最初のゴシック建築として誕生して以来、北フランスからヨーロッパ各地に広まった。パリやランス、アミアンなどを代表とする大聖堂は、建設にあたって、当初から都市民の奉仕と献金を受け、一世紀以上にわたり建設が続けられて完成した都市のランドマークをなす建築。
カトリック教会によって張り巡らされていた、小教区(パロキア)と呼ばれる行政区分。面積は一定でない。
住民の課税台帳から、小教区の住民たちの社会的トポグラフィー(職業的、社会的分布)が見えてくる。
行政区―市民生活の基礎 都市住民の日常的生活の単位は、都市当局によって区分された行政区や街区(カルチエ)
小教区とは一致しない。
シエナ
行政区は三分区(テルツォ)
その下部にコントラ―ダ(街区)があり、それぞれ独自の広場や教会を持ち、地区住民のシンボルをもっていた。
中世後期には40以上あったようだが、18世紀には17となった。
パリにおけるカルチェと同様、中世から近代にかけて、街区は家(家族)レベルでの人々の地縁的、社会的絆が形成される場であり、街区に所属しているという意識が、彼らの終生のアイデンティティをなした。
一般に中世の都市の道は不規則で、舗装も十全ではなかった。
14世紀以降、多くの都市で、街路の糞便の増加や悪臭に対する法令が出されたが、街路の舗装、清掃、公衆便所設置などの事業費の割合は、市壁の修繕費が50%であるのに対して、5%程度しかなかった。(J・P・ルゲ『中世の道』)