米や麦を総称する英語セリアルcereal (穀物) が,ローマの古い豊穣 (ほうじよう) 神ケレスに由来するように,麦類を中心とした古代西洋の穀物は地霊あるいは地母神の恵みであった。したがって,麦は収穫の象徴であり,ケレスのほかにギリシアのデメテル,アルテミス,エジプトのイシスなどの持物とされた。またオシリス,アッティス,アドニスなど,その神話が植物の枯死と再生を表現していると考えられる神々から生え出た植物の一つとも信じられた。畑で収穫された最初あるいは最後の麦束には穀物の精霊が宿るといわれ,これを魔よけや招福のお守りとして軒につるしたり,わら人形にしたりする習慣が西洋各地にある。 麦わら帽子をかぶれば幸運がくるという俗信もこれに関連している。古代ギリシアのエレウシスの密儀では,麦束が太陽の象徴として使用された。また,ローマ人は麦を生命力の象徴とみなし,死者が来世で豊かな生活を送ることを願って,墓地にこれを植えた。この習慣も長くヨーロッパに引き継がれ,葬式に麦をまく習俗をつくりあげている。インドでもヒンドゥー教徒が結婚式や葬式にオオムギをまく。 麦類はキリスト教の象徴としても重視される。 《ルツ記》にはボアズの麦畑で落穂拾いをしたルツが,情深いボアズの妻となり,ダビデにつながる家系の祖となった話がある。そのために絵画では,ルツは麦畑を背景に描かれる場合が多い。 《マタイによる福音書》13 章 24 〜 40 節では,敵にドクムギをまかれた人が収穫まで良い麦とドクムギをともに育て,見分けがつくようになってから良い麦だけを刈り集める話がキリストによって語られる。キリストはこのたとえの意味を説明して,麦畑は世界,良い種をまく人を人の子,ドクムギをまく敵を悪魔,また収穫とは世の終りと審判のことである,と述べている。またキリスト教図像学では麦を聖体の象徴とし,しばしばパンに代わってブドウ酒と組み合わせ,キリストの肉と血に見立てる。 なお 17 世紀オランダの静物画では,四季のうち夏あるいは秋の象徴として麦が描かれていることがある。 荒俣 宏 |