焔(炎)の人

Vincent van Gogh(1853 - 1890)

小林秀雄:1902(明治35)年~1983(昭和58)年


「炎の人」というとゴッホ、ゴッホというと「炎の人」…
この換喩「炎の人」だけれど、
昭和28年の小林秀雄のせりふからだと思っていたら、
http://www.littera.waseda.ac.jp/sobun/m/mi050/mi050p01.htm
この人だという…(しかしモウ一段見てみます)
それとゴッホの最後の作品は麦畑の上のカラスじゃなくて
ドービニーの庭だという
~~~??

※早稲田大学の学術データベースのリンクが切れていました・・Wikipedia:三好十郎1951年(昭和26年)9月、雑誌『群像』に「炎の人」を発表。)
確かに2年早い・・


ゴッホ展の図録では、(厳密には麦の絵は最後の絵ではないとしているが)

1880年、高名な農民画家、ジュール・ブルトン
Jules Breton(1827-1906)のアトリエを訪ねるため、
フランスの北部を歩くたびに出たフィンセントは、
ドービニーCharles-Francois Daubigny(1817-1878) とミレーの絵によって広く知られた、
カラスの群れが飛ぶのを見た。
画家になるのを決心させたのはこの旅だった。
最後の地オーヴェールで描かれた、
ドービニーに捧げた絵と二点の麦畑の絵によって、環は閉じられたのである。
byエフェルト・ファン・アイテルト

6

鳥のいる麦畑 1890, 7

小林秀雄の「近代絵画」には7枚の絵が引用されている。
その6番目に麦畑の絵があるのだが、まずこの絵を出します。


この絵の複製を所有し、絵の前に立つ写真もあり、
この絵こそが「ゴッホの手紙」を書いた動機であるというから。


(上の二葉は(C)新潮社の追悼号より引用〕検索・イメージ引用拒否
近代絵画」のゴッホの章の最後
小林秀雄全集〈第11巻〉近代絵画より以下引用


かって、ゴッホについて書いた動機となったものは、
彼が自殺直前に描いた麦畑の絵の複製を見たときの大きな衝撃であったが、
クレーラー・ミューラーの会場で実物を見た。
絵の衝撃については、心の準備はできているつもりでいたが、
やはりうまくいかなかったのである。
色は昨日描き上げたように生ま生ましかった。
私の持っている複製は、非常に良くできたものだが、
この色の生ま生ましさは写し得ておらず、
奇怪な事だが、そのために、絵としては複製のほうが良いと、
私は見てすぐ感じたのである。
それほど、この色の生ま生ましさは耐え難いものであった。
これは、もう絵ではない、
彼は表現しているというよりむしろ破壊している。
この絵には署名なぞないのだ。
その代り、カンヴァスの裏側には、
「絵の中で、私の理性は半ば崩壊した」という
当時の手紙の文句が記されているだろう。
彼は、未だ崩壊しない半分の理性をふるって自殺した。
だが、この絵が、すでに自殺行為そのものではあるまいか。


小林秀雄のゴッホの手紙

『オランダで最後の作品「麦畑」を見たとき、
この絵の裏側に、
「私の理性は半ば崩壊した」と弟に報告した手紙の文句を
まざまざと読んだ』

Charles Daubigny

1

壁のある野
1889,11

(近代絵画のゴッホの章の1)

小林秀雄がまず引用する、この絵を検索したが見つからない。
サン・レミイ精神病院で描かれたもので、
以下の説明に添えるものだあったろうが。

彼は眠られぬ夜、病室の鉄格子越しに外を眺める。


「ああ、湿った、融けかかった雪が降っている。
私は夜中に起き上がって、田舎の景色を眺める。
自然がこんなに心を締め付けるよな感情に満ちて見えたことは、
決していままでにななかったことだ」と彼は弟に書く。


ゴッホの書簡集は強い魅力を持った告白文学だ、という話。


「僕は、自分に振られた狂人の役を、素直に受け入れようと思っている。
ちょうど、ドガが公証人の役を演じたように」
嘆きも願いもしないときには、休みなく批評しているが、
批評は極めて鋭く、特に自分に対して一番厳しい。
機関車の様に休みなく描く、 修正も補筆も不可能な絵 ヤスパースの「ストンドベルグとゴッホ」に関わる話。
ヤスパースは、精神分裂症という否定的な事実を引っさげて、作品の魅惑という
肯定的な真実に正面から衝突する。

ビスマルクは議会演説の成功を期するために、多量の酒を呑んだが、
彼の演説の成功は、アルコールの影響によったとは言えないように、
ゴッホの精神分裂症という自然的過程の因果性は
それから発生したゴッホの作品の精神的世界の理解に関して、
またその意義や価値に関して、何事も語らない。


「君は、あるオランダ詩人の言葉を知っているか。
私は、地上の絆以上のもので、この大地に結び付けられている』と。
これが、苦しみながら、特に、いわゆる神経症を患いながら、
私の経験したことである」

2

花咲ける果樹園
Vincent van Gogh
1888,4
(近代絵画のゴッホの章の2)

ゴッホの百年祭

どの絵を裏返してみても、手紙の文句が記されているような気がした。
セザンヌは、自分の絵に死ぬまで不満を感じ、つらい努力を続けていたが、
自分の生きている意味が、おのずからことごとく絵のうちに吸収され、
集中されているのを疑ったことはおそらくない。

彼は先駆者の孤独をかけて新しい絵の道を開いた人だが、
絵はセザンヌという人間を隠す」。
彼の書簡集は、彼の絵に比べれば、まったくいうに足りぬ表現であって、
彼の絵を照らすように意味合いはほとんど見あたらない。
彼の所管種が、大変重要なのは、単にそれが彼の絵の解説であるがためではない。
書簡と絵が同じ人間のうちを横切りあうのだ。

3

夜のキャフェ 1889,8-9

病院の泉水(デッサン) 1889

5

糸杉のある道 1890, 5

7

自画像 1888,9

彼の尊敬したレンブラントの自画像は、
影の中から浮び上がる。
レンブラント自身はおそらく影の背後に身をひそめていたであろう。
ゴッホの最後に描いた自画像は、明るい緑の焔(ほのお)の中にいる。
彼自身の隠れる場所は、画面のどこにもなかったのである

(by小林秀雄)

ゴッホの麦へ(20150917再掲)

追記(「ゴッホの黄色」柳宗玄)

柳宗玄著『色彩との対話』(岩波書店2002年刊 初出は、岩波の「図書」連載1999年4月~2001年6月の「色彩の人間学」)を読んでいたら、この、ゴッホの「鳥の飛ぶ麦畑」(1890年 アムステルダム美術館蔵)について、「ゴッホの黄色」として書いておられた。(p165)

死を予感していたに違いない心情の厳しさと、南国の光の中で心ゆくままに生き続けた喜びの記憶が秘められているように思われる。

最後の部分に意外な驚きを感じた。
来年6月に行くつもりでいる。アムステルダム、アルル、オーヴェールニュ・・(20190823)