Italy Roman

古代ギリシアの服装

メインテーマの古代ローマ人の生活(衣装)ということであるが、その比較で、その前のギリシア人の衣装を見ようということでしたが、ここで、古代からのフアッションの歴史の概観します。チェックはまず 『 ファッションの歴史―西洋服飾史』 (シリーズ「生活科学」) 朝倉書房 2003/5刊 佐々井 啓 (著) 

ファッションの歴史

古代Ⅰ :オリエント

1.1 メソポタミア

a.シュメール、バビロニア

シュメール、バビロニア
メソポタミア(「川の間の地方」ティグリス・ユーフラテス両川)紀元前5000年頃には農耕・牧畜を中心とする文化が起こり、前3500年頃には神殿を中心とした村落が形成され、楔形文字の発明や金属器の仕様など高い文化を生み出して年に発展していった(p1)

素材は亜麻や羊毛
1)
カウナケス(kaunakes)

シュメールの彫像に見られる腰衣は、腰から下を毛皮のような外観を持った布で覆っている。これは、毛の房のついたままの毛皮を指したようだが、やがて、経糸に緯糸をループのように結びつけて房状に織ったものとなった。(p2)

2)
腰衣(こしぎぬ)

カケナケス以外に、裾に房飾りのある腰衣や、働く人々の簡単な短い腰衣など、様々な形がある
掛衣(かけぎぬ)
「ウルのニンジルスの像」(紀元前24世紀)には長方形の布を胸の下あたりで横に巻き、残りを後ろから左肩を包んで前に垂らす形の掛衣が見られる


ウルの「スタンダード」
(唐草図鑑)

b.アッシリア

ティグリス川上流のアッシリア
前15世紀に独立を回復し,前世紀前半にはオリエントを征服したが、前612年には滅んだ(p3)

アッシリアの服飾
シャツ型の全身着の上にショール上の布を巻き付けたり、肩から下げたりする形式
前9世紀前半の「アッシュールナジルパル2世像」造は、長い丈のテュニック(シャツ型)の上に、幅の広い房飾りのつういた帯状の布を斜めに巻きつけている。
アッシュールバニパル王の狩猟の姿を表した浮き彫りには、衣服に文様のある織物が用いられていることがわかる。


アッシュールバニパルの図書館で発見された
ギルガメッシュ像
(唐草図鑑)

c.ペルシア

前6世紀の半ば頃、ペルシアがアケメネス朝を起こり、オリエントを支配した。最盛期には、エジプトからインダス川にまで及び大帝国を作り、建築やや織物にも優れた成果を上げている。前5世紀にはギリシアとの戦いに敗れ、前331年に大王に征服されて滅びた。(p3)

1)テュニック、ズボン
腰丈のチュニックにベルトを締めた姿が基本
その上に1枚上着を重ねた着方や、ショール上の布を巻き付けた姿も見られる
ヘロドトスは「革のズボン(アナクシリデス)」と記している

2)メディア服(カンディス)
ペルシア西部のメディアで用いられていた関東威風のゆったりした衣服
(二つ折りにした織物の中央部に頭を通す穴があり、両脇を閉じてきていた。美しい文様のあるメディア服は両脇に襞をとり、儀礼的に装った姿が浮き彫りに見られる)


ShapurIIIのエプロン型上着(apron-shirt)
だいぶ先の3世紀のササン朝の皇帝
ペルシア美術(唐草図鑑)

1.2 エジプト

全3000年頃ナイル川上流の上エジプトと下流の下エジプトを統一する王国が誕生(首都メンフィス)
初期王朝時代、古王朝時代(前2780~前2250)、中王国時代(前2050~前1780)、新王国時代(前1567~前1085)、ペルシア支配(前525~)

a.腰衣と巻衣
男性  シェンティ(schenti)
女性:巻衣

b.装身具、被り物、髪型
権力者の象徴

c.カラシリス(calasiris)
透けるような薄地で作られ、細かいプリーツがある貫頭衣風の形で、上からベルトで締める(p8)


Tutankhamun receives flowers from Ankhesenamen
Cairo エジプト博物館 ・・
ツタンカーメンとロータス(唐草図鑑)

古代Ⅱ :ギリシアとローマ

2.1 ギリシア

a.クレタとミュケナイ

地中海の文化はオリエントの影響を受けた前3000年頃から始まったいたが、前2000年から前1200年頃までは、エーゲ文明が栄えた(中心はクレタ島首都クノッソス)

ギリシア本土では前15世紀から前12世紀にかけてミュケナイ文明が栄えていた。ミュケナイは、クレタの文化を積極的に取り入れ、それを継承、発展させたと言われる。

1)腰衣
エジプトに似ている 前後の布が中心で長くなっているものや、二重にした形もあったようである

2)女性の服飾
クレタに特有の姿として、女神像や壁画などに表されている。
前1600年頃の蛇の女神像は、胸を露出した肘丈の丈の上着とスカートの組み合わせ
上着は丈が短く、胸下を紐で締めている要せあり、袖口や空きの部分に縁取りがある。スカートは段襞状の形式であり、前後にエプロンが垂れ下がっている。
様々な色彩が用いられていた
「ハギア・トリアダの石棺」には買うなケスを身に着けた新刊らしい男性の後ろにワンピース風の全身着を着ている人々が描かれている

3)ミュケナイの服飾
ミュケナイの服飾はクレタににているが、形(の数)が多い
男性では腰衣から半ズボン状になったことが特徴である


二匹の蛇をもつ女神(唐草図鑑)

b.ギリシア文化

ミュケナイ文化を形成したアカイア人に加えて、それを滅ぼしたドーリア人、小アジアに住みついていたイオニア人前8世紀頃からポリス(都市国家)を形成し独自の文化を築いていった。(p8)

1)キトン
キトン(chiton)はギリシアの代表的な衣服である。語源は「亜麻の衣服」
青の形は、長方形の布を二つ折り、折り目を脇に当てて前後の布を両肩で留めたもの。腰には帯を締め、丈の調整をしていた。
前6世紀頃には、薄い麻織物で作られ、両脇と肩が閉じられたイオニア風のキトンが女性に用いられるようになった。
ヘロドトスの『歴史』:アテナイとアイギナとの戦争の折に、アテナイ軍の全滅を伝えた兵士が、戦士したした男達の妻によって、衣服の留め金で刺し殺された⇒この期、女性の衣服は留め金を使わないイオニア式のキトンに改められた

2)ペプロス
ペプロス(eplos)は、前12~前6世紀のアルカイック時代に用いられた女性の衣服

3)ヒマティオンなど
キトンの上に用いる外衣には、幾つかの種類がある
クラミス(chlamys)  兵士や青年が乗馬や旅行のために用いたマント厚手の毛織物 縦1.4メートル×横2.3メートル位
クライナ(chlaina)ほぼクラミスト同型出会ったが濃い色のマント
ヒマティオン(himation)大きな長方形の毛織物 一般市民がマントとして用いたもの 縦2メートル×横3メートル(あるいはそれより長い)


古代ギリシア―ペルシア戦争
(唐草図鑑)

2.2 ローマ

a.エトルリア

全8世紀頃、イタリア中・北部にエトルリア人が都市国家をつくっていた。その文化はギリシアの影響を受けながらも写実性と力強い表現とによって独自の作風を築いている(p16)

タルクィニアで前6世紀末から前5世紀にかけてるくられた墳墓には、宴会や儀式の場面が墓室の壁面に描かれている
「鳥占い師の墓」 白いトゥニカ風の衣服の上にショール風の掛衣をつけている姿が見られる
「豹の墓」 掛衣1枚を素肌につけている楽師達形は長方形、半月型、弓形など様々で色彩豊か

b.ローマ共和制と帝制

表記は普通は「ローマ共和制と帝政」ではないかと思うが、いよいよローマにきました

前6世紀にはイタリア人がローマの都市を作り、神殿や道路、水道などの建設を行った。
前609年位はエトルリアの王を破って共和国となった
前207年頃にはイタリア全土を支配下に治め、周辺の地域も次々と属州として支配した
前58~51年にはカエサルがガリア遠征を行っている。
前27年にはオクタヴィアヌスにアウグストゥスの称号が元老院から与えられ、帝制を敷いた以後2世紀の間ローマは平和であった。

1)トガ
トガ(toga) ローマの代表的な衣服 形式はギリシアのヒマティオンのように1枚の布を身体に巻き付けるものであるが、弧の部分を持つ
大きさは長い部分が4~5メートル、高さが2~3メートル
トガの襞にはそれぞれ名称が与えられた・・ シヌス(前に大きく下がる部分)、ウンボー(胸のあたりの襞)、ラキニア(両足の間の垂れ)
帝政時代の格式
一般市民:羊毛の自然色、 官吏候補生:晒した白色 官職者:晒した白色に幅の広い緋紫の縁飾り 将軍や皇帝: 緋紫に金糸の刺繍 
緋紫「テュロスの紫」地中海沿岸の町テュロスからもたらされた貝のエキスで染めた:権力者の象徴
トガは常に洗濯して白くしておかねばならなかった(p19)
次第に大きく重くなったため略式の式服が見られるようになった。
シュンテシス:晩餐用衣装として用いられた トウニカの上に下部にのみまとう小型のトガ

2)トゥニカ
トゥニカ(tunica)トガの下に着用しているシャツ型の衣服
布を二つ折りにして両脇を閉じた形であったが、やがてT字型のものも見られるようになった
男性用は膝丈、女性用は長い丈である
2枚重ねて着られるようになると身分表示の役割をもつようになった
騎士:2本の緋紫の線状の飾り(クラヴィ,clavi)がつき、その飾りの幅が広いものは元老院議員用
トゥニカは、3世紀頃ゆったりしたダルマティカへと変化していった。 (p20)
トゥニカの上には様々な外衣が用いられた。
パリウム:ヒマティオンの系統の大きな方形の布
ラケルナ:クラミス系のマント 半円形またはそれに近い形
パエヌラ:貫頭型でトゥニカの上に用いる防寒用や旅行用のマント
パルダメントゥム:将軍や将校が用いる大型のマント
サダム:兵士の用いるマント 同意にはホーザという靴下をつけていた

ローマ人は周辺の諸国を従え、ゲルマン人の穿いていたスボン(ブラカエ)を兵士の服装にとり入れた
スボンは野蛮な風と見られていたが次第に着用者が増え、4~5世紀には市内での着用がたびたび禁じられた。 (p21)

3)ストラとパルラ
女性は次第にトガはつけなくなり、内衣としてのトゥニカとストラ(stola)を着用するようになった。ストラはトゥニカと同型蒲田はペプロスヤキトンににた形であった。
ストラの上にはパルラ(palla) というヒマティオンに似ているが、ショール状の布を巻く。2せいきごろにはあたまからかぶるすがたがみられるようになる。
このような服装は3世紀頃にはダルマティカへと変化していき用いられなくなっていった。 (p21)

文献

青木英夫著の『西洋暮らしの文化史」は1996年3月刊でしたが、その後、『下着の文化史』(2000年11月 雄山閣出版刊)という著がありましたので、第一章のみチェックします。

図説 ヨーロッパ服飾史

第一章 下着の発生と広がり
1.下着のおこり
  ロインクロスとチュニック
  スカートとズボン
  NUDEの讃美
  娼婦の時代

下着は表着があって存在するのである。したがって、表着だけのものだとすると、はたしてこれを下着だとする解釈は成り立つのかはむずかしい。
司会現在の下着の基礎は、東南アジアで用いているふんどしやヨーロッパ古代の人達が用いていたロイン・クロスなどその例になるだろう(p13)

ロインクロスとチュニック
ロイン・クロス(loin cloth):腰衣の始まりは紀元前3000年頃とされる
(シュメールの像の)パンティ様のものは、太ももの間に纏わりつくロイン・クロスの端を固定しようとする試みから生まれたものを考えられる
同じ頃エジプトでは、奴隷のあるものはシュメールの女性がつけていたパンティ様のものよりもっと小さなものをつけていた。自由民の女性たちは、このようなものを身につけることはけっしてなかった(p14)

スカートとズボン
紀元前2000年頃から、黒海、カスピ海、紅海をふくむ地域には、ヒッタイト人、ペルシャ人、インド・ヨーロッパ人たちが広く侵入してきた。その結果、古来から地中海沿岸に住む人々の開放的な衣服と全く対しょう的な閉鎖的な構造の衣服が出現した。

シリア、パレスチナはいわゆる「聖書圏の中心地」に当たる地方で、オリエント地方の中心をなしていた。したがって、紀元前2000年から紀元前300年にかけてシュメール、エジプト、バビロニア、ハッティについで紀元前4世紀までは、アッシリア、新バビロニア、ペルシャが、以後ギリシャ、ローマの影響を受けた、というよりも借用していたといって差し支えない。

スボンはペルシャ人に寄ってセム人の間に広まり、カルソン(ズボン)は聖職者の服装として必要な要素であった(p16)

意味が取りにくい部分があった。「たいしょうてき」という語が「対象的」という表記だったが、これは、開放的に対して閉鎖的と言っているので、対称的であるか・‥その次の段落の主語述語、意味がよくわからない。^^;
ズボンの形態について、宗教的、道徳的な,というのは徳井淑子さんの「ヨーロッパ服飾史」にはみなかった視点。(徳井さんのは、保温や乗馬での機能的な視点だった)

紀元376年、西ゴート人によって国境が突破され、ドナウ川が開放され、ローマ帝国は侵略されたのである。これは戦いに敗れた結果だった。ズボンとトーガの優越性を巡る争い、これは文明人と北方野蛮人との闘争であった。(p24)

なるほど・・
優雅なるトガは、やぶれたのであった・・
衣服はここまでで、次は、ローマの住居、庭を見ます・・

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